公衆トイレに書かれた落書きのメールアドレスに連絡してみたら

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 帰宅して夕食を終えてからの一時間から二時間程度、ジョギングとウォーキングの中間くらいの速度でゆるめの運動をしている。
 運動時間がまちまちなのは、動画サイトでお気に入りのチャンネルの新着動画を再生して聴きながら歩いているからだ。
 場所はいつも決まっていて、近所にある大型コンベンションセンター外周の緑道をひたすら周回する。
 公道は意外とアップダウンがあるし、俺は他人の運転を信用していない。途中に自動販売機やお手洗いがあるのも有り難かった。

 その公衆トイレでとある落書きに気づいたのは偶々だった。
『ババアですが犯して欲しいです。メールください』という文章と共にメールアドレスが書かれていた。
 一見して男性の字であることは明らかだった。
 油性マーカーのようなペンではなく、いわゆる普通のボールペンで書かれているため、字は薄くて掠れて読みにくい。明日の清掃が入ればあっさり消されるだろう。

 書いた本人も可読性を気にしていたようには見えない。
 伝えることを目的としたというよりは衝動的にただ書き殴っただけという印象を受けた。
 これがもしもメッセージアプリのIDのようなものであれば、おそらく俺は気にもとめていなかっただろう。ネットにはそんな胡散臭い誘導や宣伝を目的としたメッセージが溢れているからだ。

 メールという最近では個人間であまり使われなくなった連絡手段を記入したことへの好奇心、そして最悪でも自分のメールアドレスを消してしまえば関係は断ち切れるという安心感。俺はその落書きをスマホのカメラで撮ってから、手洗い場の石鹸で濡らしたティッシュで擦り文字を消した。
 そして『はじめまして、こちらのメールアドレスが落書きされているのを見つけて連絡しました。落書きは消しましたが、一応報告いたします』という文面に落書きの写真を添付して、書かれていたアドレス宛にメールを送信した。

 退屈な日常の中の、ちょっとした冒険くらいの気持ちだった。たぶん明日になれば、落書きなんて初めから存在すらしなかったように日々は続いていくのだろう。

 返信が届いたのは翌朝のことだった。

    〇

 そのメールは丁寧な文章で書かれていた。

『ご連絡いただき、ありがとうございます。お手数をおかけしました。どうお返事をしたものかと迷い、返信が遅くなってしまったことをお詫び申し上げます』

 卑猥なトイレの落書きを見つけて連絡してきた不審人物である俺に対して、彼女は悪い印象は抱いていないようだった。

『お気づきかと思いますが、その落書きは私がしたものではありません。またその落書きをした人物についても心当たりがあります。筆跡や状況から考えても間違いはないと考えています』

 文面からは物静かで聡明な印象を受けた。首を傾げるとすれば、この返事を書くのに迷う要素があるだろうかということだ。
 その疑問の答えは続く文章に書かれていた。

『詳細は身内の問題なのでメールでお伝えするのは憚られるのですが、今回の件のお礼も兼ねて、一度会いしてお話しすることはできないでしょうか。不躾なお願いであることは重々承知の上ですし訝しく思われる気持ちも想像できますので、場所や時間は全てそちらのご都合に合わせます。どうかご検討くださいますようお願い申し上げます』

 よくもまあ突然メールをしてきた得体の知れない人物と直接会おうなどと提案できるものだ。
 トイレの落書きにメールを送った俺が自分のことを棚に上げてとやかく言えたものではないが、それにしてもである。
 仮にそれだけ切羽詰まった事情があるのだとしても、なおのこと相談相手は選ぶべきだ。

 そこまで考えて俺はこのメールが何らかの罠なのではないかと警戒した。そもそも時間と場所はこちらに合わせますと書いてはいるが、普通に生活していてそんなことが可能なのだろうか。
 怪しい業者ならまあ仕事だし合わせもするだろう、あるいは専業主婦でも子どもが手を離れていれば、比較的時間の自由はきくのかもしれない。

 ……ならば敢えて難しそうな時間を指定してみるか。
 その反応によって相手の本気度合いや考えも推測できるかもしれない。
 俺はそう考えて、日付を今日、時間を自分がいつもウォーキングをしている夕食後、場所をコンベンションセンター近くの喫茶店に指定して、メールを返信した。

『ご返信ありがとうございます。日時と場所につきましては承知いたしました。少し遅れるかもしれませんが、その際は必ず事前に連絡します』という返事が届いたのはすぐだった。

    〇

 指定した時間よりも少し早めに喫茶店に入りアイスコーヒーを注文する。
 そういえば、待ち合わせ相手を確認する手段については考えていなかったなと思いつつ、スマホを取り出し『喫茶店に入りました』と連絡した。

 閑散とした店内でぼんやりしていると、ほどなくして「すみません、メールをいただいた方でしょうか?」と声をかけられた。
 見るとそこには四十代半ばくらいの年齢の女性が立っていた。
 黒いパンツに白いブラウスというシンプルな出で立ちで、肩までの髪には軽くパーマがかかっている。

 メールの印象から年上の女性だろうという気はしていたが、想像よりも身綺麗な女性だった。
 清楚で落ち着いた雰囲気で顔立ちも整っているが、化粧も服装も控えめなので、もしかすると街中ですれ違ってもあまり印象に残らないタイプかもしれない。実際のところ、俺が入ってからは誰も来店していないので彼女は最初から店内にいたはずなのだが、俺は特に彼女を気にとめていなかった。

「お待たせしたようで申し訳ありません、高山と申します」と答えながら向かいの椅子を勧める。
「はじめまして、砂川小夜子と申します。無理なお願いを聞いていただきありがとうございました」
 彼女は恐縮したように言って座った。
 ちょうど俺の頼んだアイスコーヒーが運ばれて来たので、砂川さんもそのタイミングで紅茶を注文する。

「メールでやりとりするよりも直接お会いした方がいいかと思いまして」
「そうなんですね、確かにその方が話しやすいこともあると思います」
 コーヒーで喉を潤して俺はそう答えた。

「それで早速あの落書きについてなのですが。おそらく書いたのは私の主人です。お恥ずかしいのですが一昨日に夫婦喧嘩をしてしまい、その腹いせに私になりすましてメッセージとメールアドレスを書いたのだと思います」
 砂川さんは落ち着いた様子でそう言った。
「ああなるほど、そういうことでしたか」
 俺はそんな相槌を打つが、だとしてもなぜ直接会ってまで話す必要があるのかはわからない。

「夫は昨日から帰っていませんので問い質したわけではありませんが、まず間違いないはずです。あの日は本当にひどい喧嘩をしました。主人は昔から浮気症で何度も繰り返していて……今回のことだって自分が悪いのに、あんな落書きをするなんて」
 先ほど俺は砂川さんが落ち着いていると感じたが、それは間違いだったようだ。
 彼女はとても怒っていた。ただそれを外に漏らしていないだけで。
 なんとなく彼女が返信に時間がかかったという理由も理解できた気がした。

    〇

 喫茶店では一時間ほど砂川さんと時間をすごした。
 夫の浮気癖とそれに憤る日々を延々と愚痴られたようなものだが、話のペースは終始穏やかだったので不快には感じなかった。
 それにもっといえば俺は彼女に好感を抱き始めていた。
 第一印象こそ取り立てて良いものではなかったが、彼女の聡明さと物静かな雰囲気、そして自らの感情を抑えられる自制心など、話せば話すほど、俺は砂川さんに惹かれていった。

「そろそろ出ましょうか」と言って砂川さんが席を立つ頃には、お互いに随分と打ち解けたと思う。
 今日は旦那の夕食のお世話をする必要がないからいつもよりのんびりできます、と彼女は笑った。
「もしもまだお時間があれば、もう少しお付き合い願えますか」と砂川さんが言ったので俺は快諾する。
 彼女の案内に従ってしばらく歩き、到着したのは割と大きめの一軒家だった。高めの外壁で覆われており一目見て裕福な暮らしをしていることが窺える。

「すみません、初対面の人を家に連れこむなんてはしたないですよね」と砂川さんは冗談とも本気ともつかない調子で言った。
 俺は何と返答したものかと迷い結局、そんなことないですよと無難な言葉を返す。
「ふふ、ありがとうございます。少し散らかっていますがどうぞ上がってください」
 そう言って砂川さんが玄関の鍵を開け、そのまま家の中に招き入れられた。

 玄関からリビングに通されると、思わず「おお」と感嘆の溜息を漏らしてしまった。
 広いリビングは綺麗に片付いており、ホームシアターさながらの大型テレビが鎮座していた。部屋の壁際にはオーディオセットも置かれている。ガラス戸の向こうにはバルコニーがあり、夜景を楽しめるであろうウッドデッキが設置されているようだった。
「今日は私の愚痴を嫌な顔ひとつせず聞いていただいて、ありがとうございました」
 そう言って彼女はそっと俺に抱きついた。ふわりと甘い香りが漂い、心臓がどきりと高鳴る。

「あ、あの砂川さん?」
 慌てて声をかける俺とは対照的に彼女は落ち着いた様子で「勘違いなら申し訳ありません、高山さんが落書きのアドレスにメールを送ったのは、正義感からだけではありませんよね?」と言った。
「私の体では物足りないかも知れませんが、高山さんさえお嫌でなければどうかお好きなように」
 彼女の瞳が俺を見つめていた。まるで心を奥を覗き込まれているようだ。妖しく揺れる灯火のようで思わず唾を飲み込む。

 戸惑いなのか興奮のせいなのか、自分でも判然としない感情で動けないでいる俺に砂川さんが口づけをした。
触れるだけのものだったが、これまでにしたどんなキスよりも官能的に感じた。
「ごめんなさい、私どうかしていますよね」と言って彼女は恥ずかしそうに俯く。
「自分でも変だとは思うのですが、あの落書きを読んで私のメールアドレスに男性が連絡をしてくれたと思うと、どうしても興奮を抑えきれなくて。こんな気持ちは数年ぶりなんです」

 砂川さんはそう言うと再び俺にキスをした。
 今度は先ほどとは違い、彼女の舌が俺の口内に侵入しねっとりと絡みついてくる。その舌使いは巧みで、俺は思わず腰が砕けそうになるのを感じた。
「本当にお嫌でしたら拒んでください。でも少しでも私を女として見ていただけるのなら、どうかこのまま……」
 そのまま優しくソファに押し倒されると、彼女は俺の首筋に舌を這わせた。と同時にゆっくりと服の中に手が入ってくる。ひんやりとした細い指先に俺は抵抗できなかった。彼女の愛撫は巧みで、俺はすぐに何も考えられなくなるほど夢中になった。

「ああ、高山さん」と砂川さんは切なげな声を上げる。
 その目は情欲に潤んでおり、それがさらに俺を興奮させた。
 やがて彼女は俺の首筋に吸い付き、ゆっくりとシャツのボタンを外すと自らも裸になる。そして俺の上に跨がると恐る恐る腰を降ろしていく。
「んんっ」という声と共に、ペニスが熱い粘膜に包まれるのを感じた。
 砂川さんはどうやら挿入しただけで軽く達したようで、ビクビクと断続的に腰が痙攣している。

「ごめんなさい……しばらくしていなかったから、刺激が強すぎて……」
 それでもなお彼女は腰を動かし、その度に加齢で少し垂れ気味の胸が上下に揺れた。
 俺もまたそんな光景に言いようもなく興奮し、気付けば下から腰を突き上げていた。
 最初はぎこちなかったお互いの動きだが、いつしか二人で快楽を貪り激しく求め合う。
 やがて彼女が再び絶頂を迎えると同時に今度は俺も彼女の中で果てた。


(終)