取引先の人妻職員との背徳関係
取引先の事業所から出たところで「……安田さんですか?」と声をかけられた。
見覚えのない年上の女性だったが、おそらく仕事の関係で知り会ったのだろうと思い「おはようございます」と会釈をしながら、俺は彼女のことを思い出そうとした。
率直に言って美人だった。
それも個人の好みが介入する余地のない美人だ。
彼女のことを異性として好きな人もいれば、興味がないという人もいるだろう。だが興味がない人であっても彼女が美人であることについては否定しない、そんな美人だった。
それなのにどうして思い出せないのだろう。
そんな気持ちが表情に現れていたのかもしれない。
「神谷です。以前に同じ職場で働いていた」と彼女は名乗った。
「ああ、神谷さん。ご無沙汰しています」
俺はその名前を聞いて一瞬で彼女のことを思い出した。
彼女は俺が以前に勤めていた会社で派遣社員として働いていた。
最初に見たのは、採用前の面談に訪れた彼女が鏡の前で髪を整えている姿だった。
こんな美人でも前髪を気にするんだな、と妙に感動したのを覚えている。
彼女の左手薬指の指輪に気づいたときには、こんな美人と結婚できるのはどんな男性なのだろうか、と素朴に疑問に思ったものだ。
それほど印象的な女性だったはずなのに、なぜ最初から気が付かなかったのかと言われれば、それは彼女の髪色や雰囲気が変わっていたから、というのもあるのだが、俺と彼女が同じ職場にいた期間がせいぜい一ヵ月にも満たず、しかもその間まともに話したこともなかったからだった。
彼女が際立った美人であったからこそ、俺は彼女を覚えていたし思い出せもした。
だがその一方で、彼女が俺を覚えていたことについては、嬉しさを通り越して不思議ですらあった。
俺はどこに出しても恥ずかしくないくらいの凡人だ。
「わたし、今はこちらで働いてるんです」
彼女は俺が先ほど出てきたばかりの事業所を指し示しながら笑顔で言った。
「そうなんですね。またお仕事で関わることができて嬉しいです。よろしくお願いします」
不思議ではあったが、美人に顔を覚えられていて悪い気はしない。俺もまた笑顔で返答し、少し浮かれた気持ちを自覚しながらその場を後にした。
〇
それから俺は彼女と仕事を通じて関わるようになった。
取引先に電話をかけた際に彼女が応対してくれれば軽く雑談をしたし、事業所への訪問も、彼女に会えるかもしれないと考えると胸が躍った。
同じ職場で働いていた頃は全く話さなかったのに、それぞれ違う会社に所属している今の方が以前よりも親しく交流しているのだから不思議なものだ。
ある日ふと彼女に、よく俺のことを覚えていましたね、と聞いたことがある。
彼女にとって俺が印象に残るような、特別な存在であったことを期待する気持ちが少なからずあったのだろう。
すると神谷さんは「だって安田さん、あの頃と全然変わってないんですもん」とにこやかに言った。
その言葉の意味するところは正確には解らなかったが、彼女が俺のことを異性として意識していたから覚えていた、という理由でないことは明らかだった。
がっかりした気持ちもあり、少しふてくされて「どうせ全然変わってませんよ」と言うと、それが可笑しかったのか、彼女はくすくすと笑いながら軽く俺の腕に触れて言った。
「すねないでください。あの日、わたし安田さんに会えて安心したんです」
どういうことかと聞けば、神谷さんと再開した日は彼女にとって出勤初日だったらしい。
そんな緊張しているところに、数年前と全く変わらない俺が現れたものだから、思わず嬉しくなり声をかけたのだという。
「なんだか釈然としませんけど、神谷さんのお役に立てたのなら良かったです」
美人というのはやはり得だ。彼女が楽しそうに話していると、まあいいかという気持ちになるのだから。
神谷さんは俺の言葉に一瞬きょとんとしたが、柔らかく微笑むと「安田さんは相変わらず優しいですね」と言い、男の人にそんなこと久しぶりに言われたなあ……と小さく呟いた。
「安田さん、今度はいつ会えますか? そういえば初出勤の緊張をほぐしてもらったお礼をしていませんでした。今度お見えになられたときに用意しておきますね」
そう言って嬉しそうに笑う彼女の笑顔に見惚れた俺を誰が責められるだろう。
相手は人妻だ、頭では解っていても自分の顔が赤くなるのを抑えられなかった。
〇
翌週の夕方、事業所に立ち寄った俺を見つけると「安田さん!」と声を弾ませて神谷さんが小走りに駆けよってきた。
「お仕事お疲れ様です。先週言ってたお礼なんですけど……」
そう言いながら彼女は小さな紙袋を差し出す。お礼をしたいという言葉は社交辞令ではなかったらしい。
紙袋のデザインから中身の予想はついたが、俺は驚いて見せることを忘れなかった。
「ありがとうございます」と紙袋を受け取り、許可を得てから中を確認する。
彼女は少し恥ずかしそうに目を伏せながら微笑んだ。
「ここのお店のクッキー、わたしのお気に入りなんです」
その店は俺もよく利用している洋菓子店だった。彼女との思わぬ接点に少し嬉しくなる。
「甘すぎず後に残らない上品な味わいで、夫も好きなので甘いお菓子が苦手な男性でも大丈夫だと思いますよ」
なるほど、旦那さんが好きなのか。
彼とは女性の好みだけでなくお菓子の好みも似ているようだ。
どことなくクッキーを見つめる彼女の笑顔が曇ったようにも見えたが、すぐに普段通りの明るいものに戻っていたから、きっと気のせいだろう。
それからしばらく彼女と洋菓子店の話題で雑談をした。彼女と話しているとあっという間に時間が過ぎていく。
ただ少し気になったことといえば、いつもと比べて彼女との距離が妙に近く、ボディタッチも多かったことだ。
意図的なのか無意識なのか、おしゃべりを楽しみながら笑っている彼女の表情からは、その本心を伺い知ることはできなかった。
〇
神谷さんとはそれからも頻繁に事業所で顔を合わせた。
会うたびに彼女との心理的な距離が縮まるようで、俺が訪問すると嬉しそうに近寄って来る。だが彼女と親しくなればなるほど、俺は彼女の夫のことが気になっていった。
それは以前の職場で感じたような、どんな男性なのだろうという好奇心ではなく、俺と神谷さんとの距離が近すぎることに対する後ろめたさだった。
このままでは間違いを犯してしまいそうだ。
そんなことを考えていたら、その機会は思いの外すぐに訪れた。
その日、俺は残業を終えて遅くに会社を出た。
外は暗くて寒い。雨も降っていた。
そんな中を急ぎ足で駅に向かっていると、シャッターの降りた店舗の前で雨宿りをする神谷さんの姿を見つけた。
彼女は俺と目が合うと「安田さん!」と言って駆け寄ってきたが、俺はその姿を見て思わずぎょっとした。
彼女の服は雨で濡れていた。しかもブラウス越しに下着が透けて見えている。
「こんなに濡れて、どうしたんですか?」俺は慌てて訊ねる。
彼女は「傘がなくて困っていたんです」と少し恥ずかしそうに答えたが、それにしてもこの雨と寒さの中、傘も差さずに出歩くのは無謀すぎるだろう。俺は自分のコートを脱ぐと彼女に羽織らせた。
「え? 悪いですよ」と彼女は遠慮するが、「風邪引いちゃいますから。とにかく着てください」と言って強引に自分の傘に彼女を招き入れる。
神谷さんはおずおずとコートに袖を通すと「暖かいです……」と言って微笑んだ。
「駅まででいいですか? 一緒に行きましょう」
俺がそう提案すると、彼女は少し迷う素振りを見せたが、結局小さく頷いた。
「でも……安田さん寒くないですか?」
神谷さんが聞いてきたので俺は「まあ、多少は」と答える。
「じゃあ、こうしましょう」
そう言って彼女は腕を絡めるとぴたりと寄り添った。
柔らかい胸が圧し潰される感触に鼓動が速くなる。だがそれ以上に彼女の身体の冷たさに驚いた。
思わず「体すごく冷えてるじゃないですか」と言うと、彼女は小さな声で「安田さんって優しいですね」と呟き微笑んだ。そして傘をさす俺の手に自らの手を重ねるとぎゅっと握る。
「ちょっと……神谷さん?」
戸惑う俺をよそに神谷さんはくすくすと笑う。
「わたし冷え性なんですけど、手が冷たい人は心が暖かいそうですよ。どうですか、暖まりますか?」
そう言って笑う彼女の表情は普段よりも幼く、なんだかとても魅力的に見えて、俺は自分の置かれた客観的な状況を忘れていった。
そうして手を握り合いしばらく歩いていると、ふいに立ち止まった彼女が駅へと向かう方向とは違う道へと俺の手を引く。
「ちょっと寄り道していきません?」
急いで帰る理由もなかったし、もっと彼女と一緒にいたかったので、俺は「いいですよ」と答える。
神谷さんは嬉しそうに笑うと、通りから離れたラブホテルを指さして、
「わたし、あそこに入りたいです」と言った。
〇
彼女は俺の知っているつもりだった彼女よりも積極的だったらしい。
「ちょっと……神谷さん、少し落ち着いて」
そう言っても聞く耳を持たず、部屋に入るなり抱きついて股間に手を伸ばす。
口づけをすれば積極的に舌を絡めてくる始末だ。
彼女の積極性に内心困惑しつつも、俺もまた興奮していたので、もつれ合うように彼女をベッドに押し倒して服を脱がした。
濡れているブラウスを見たときから察しはついていたのだが、彼女の下着はひどく扇情的なものだった。
一瞬、どうしてあんな時間にあの場所にいたのだろう、という疑問が頭をよぎる。
「ねえ安田さん……わたしのこと抱いてください……」
だがそんな疑問は鼓膜を揺らす彼女の湿った吐息にかき消された。
この期に及んでは必然とすらいえる彼女の言葉は、おそらく雄の本能を刺激するために敢えて口にした台詞で、俺の理性は彼女の目論見通りたやすく決壊した。
乱暴に胸を揉んでも彼女は嫌がる素振りを見せず、それどころか「もっと強くしてください……」と甘えた声でねだってくる。
言われるがままに彼女の胸を強く揉みしだき、その先端を指でつまんで刺激すると、彼女は甘い声を上げながら腰をくねらせた。
「わたしもう我慢できません……」
彼女の下着を剥ぎ取り彼女の股間に指を這わせる。
「あっ……」と小さな声を上げる彼女のそこは、もうすっかりと濡れていた。
「……お願いです、早く入れてください」
その言葉に促され俺もまた下半身を露わにして自分のモノを取り出した。
「じゃあ入れますよ」
神谷さんがこくりと頷いたのを確認してからゆっくりと挿入する。
彼女は「ああっ……」と小さく声を上げたが、それでも抵抗することなく俺を受け入れていた。
奥まで入ったところでいったん動きを止めると、神谷さんは少し物足りなそうな顔をして自ら腰を動かし始める。
「安田さんも……動いて」
最初はゆっくりと、次第にペースを上げながら、腰を動かし膣内の感触を味わう。
彼女はその度に「あっ……あっ……」と声を上げたが、それでもまだ物足りないといった様子だ。
「もっと強くしてください……」と言うのでさらに激しく突き動かしていると、やがて彼女は一際大きな声を上げて身体を痙攣させたかと思うと、ぐったりと脱力した。どうやら絶頂を迎えたらしい。
だがすぐに「安田さん……わたしまだ満足できないです……」と言って起き上がると、今度は騎乗位の体勢になり自分の動きたいように動き始める。
彼女の腰の動きに合わせて胸が揺れるのを眺めながら、俺はどこか他人事のような快楽を下半身に感じていた。
彼女はさざ波のような絶頂を幾度も迎えているようだったが、それでも動きを止めようとはしない。
やがて収縮した膣内が陰茎を刺激して俺にも限界が訪れそうになると、それを察した彼女が倒れ込んできた。
「ああっ……わたしまたイキそうです……」
俺は今更ながら、既婚者相手にコンドームも付けずにセックスをしていたことに気付く。
このまま彼女の中に精を吐き出してしまいたいという欲求に抗い、慌てて彼女の中からペニスを引き抜き射精した。
飛び散った精子が白いシーツを汚す。
神谷さんが少し不満気な表情を浮かべたのは、たぶん気のせいではないだろう。
彼女は「今度はもっとゆっくりと時間をかけて気持ちよくなりたいですね」と言うと、こぼれた精液を指先ですくい取り、舌を這わせていつものように笑うのだった。
(終)