取引先で再会した人妻職員との背徳関係(1)

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 取引先の事業所から出たところで「……安田さんですか?」と声をかけられた。
 見覚えのない女性だったが、おそらく仕事関係で出会った誰かだろうと思い「おはようございます」と会釈をしながら、俺は彼女のことを思い出そうとした。

 率直に言って美人だった。
 彼女のことを異性として好きな人もいれば、興味がないという人もいるだろう。だが興味がなくても、彼女が美人であることについては否定しない。そんな美人だった。

 なのにどうして思い出せないんだろう。そんな気持ちが表情に出ていたのかもしれない。
 彼女は「神谷です。以前〇〇〇で働いていた」と名乗った。
「ああ、神谷さん! ご無沙汰してます」
 俺は彼女の名前を聞いて、一瞬で思い出した。

 彼女は俺が以前に勤めていた職場で、派遣社員として働いていた。
 たまたま採用の面談に訪れた彼女が、鏡の前で髪を整えている姿を見かけた俺は、こんな美人でも前髪を気にするんだ、と変に感心したのを覚えている。
 彼女の左手の薬指で輝く指輪に気づいたときには、こんな美人と結婚できるのはどんな男なのだろう、と思ったものだ。

 それではなぜ彼女が判らなかったのかと言えば、髪型がすっかり変わっていたから、というのもあるが、何よりも俺と彼女が同じ職場にいた期間がせいぜい一ヵ月にも満たなかったからだ。しかもその間、まともに話したこともない。
 彼女が際立った美人であったからこそ、俺は彼女を思い出すことができたが、彼女が俺を覚えていたことは嬉しさを通り越して不思議ですらあった。

「わたし、今はこちらで働いてるんです」
 彼女は俺が先ほど出てきた事業所を示しながら笑顔で言った。
「そうなんですね。またお仕事で関わることができて嬉しいです。よろしくお願いします」
 不思議ではあったが、美人に顔を覚えられていて悪い気はしない。それくらい彼女は魅力的だった。俺もまた笑顔で挨拶を交わし、少し浮かれた気持ちを自覚しながらその場を後にするのだった

◆◆◆

 それから彼女とは仕事を通じて関わるようになった。
 取引先に電話をかけた際に、彼女が電話口で応対してくれれば軽く雑談したり、取引先の事業所を訪問する際も、彼女がいるかもしれないと楽しみになっていた。
 同じ職場で働いていた頃は全く話さなかったのに、違う会社に所属している今の方が以前よりも親しく交流しているのがなんだか面白かった。

 ある日ふと彼女に、よく俺のことを覚えていましたよね、と聞いてみた。
 彼女は「だって安田さん、あの頃と全然変わってないですもん」と言って笑った。
 それがどういう意味なのかは解らなかったが、少なくとも彼女も俺のことが異性として気になって……みたいな話では全然ないようだ。

 そんながっかりした気持ちもあり、少しふてくされて「どうせ全然変わってないですよ」と言うと、彼女は可笑しかったのか、くすくすと楽しそうに笑っている。
「自分では全然意識してないんですけどね」と俺はぼやいた。
 すると彼女はまた一段と可笑しくなったのか、軽く俺の腕に触れながら言った。
「すねないでくださいって。あの日、わたし安田さんに会えて安心したんですよ」

 聞くところによると、再開したあの日、彼女は初出勤であったらしい。そんな緊張しているところに、数年前と全く変わらない姿の俺が現れたものだから、思わず嬉しくなって声をかけてきたのだという。
「なんか釈然としませんけど、神谷さんのお役に立てたなら良かったです」
 美人ってのはやっぱり得だよな、彼女が楽しそうにしてると、まあいいかという気持ちになってくる。

 彼女は俺の言葉に一瞬きょとんとしたが、嬉しそうに笑うと「相変わらずお優しいですね」と言い、そんなこと久しぶりに言われたなあ……と小さく呟いた。
「安田さん、今度はいつ来ますか? そういえばお礼してませんでした。今度お見えになったときに用意しておきますね」
 彼女の笑顔に見惚れた俺を誰が責められるだろう。相手は人妻だ、と思いつつも俺は顔が赤くなるのを自覚しながら来週の予定を告げた。

◆◆◆

 翌週の夕方、事業所に立ち寄った俺を見つけると「安田さん!」と彼女は嬉しそうな顔をして小走りに近寄ってきた。

「お仕事お疲れ様です。先週言ってたお礼ですけど」と言いながら彼女は、小さな紙袋を俺に差し出した。紙袋のデザインから中身が何かは大体予想がついたが、俺は少し驚いて見せることを忘れなかった。
 お礼をしたいというのは社交辞令ではなかったらしい。

「ありがとうございます」俺はお礼を言い紙袋を受け取ると、許可を得て中を確認した。
 彼女は少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「中はクッキーなんです。ここのお店のが、わたし、大好きなんです」
「あ、実は僕もここのクッキー好きなんですよ」

 その店は俺も知っていた。よく利用している洋菓子屋だ。それもこのクッキーは俺が最近気に入っている商品だった。偶然の一致に俺は驚いたが、彼女はそれほど驚いている様子はない。もしかすると俺のことを洋菓子屋で見かけたのかもしれない。

「ここのクッキー、よく食べてますよ」と俺は言った。
 甘すぎず上品な味わいで、確かにとても美味しいのだ。
「わたしもなんです。うちの夫も好きなので、男性も好むお菓子かなって」
 なるほど夫が好きなのか、と俺は思った。可愛らしいクッキーを微笑ましく眺めたとき、一瞬彼女の笑顔が曇ったように見えたのが気になった。しかしすぐに彼女の笑顔は普段通りの明るいものに戻っていたから、きっと俺の見間違いだったんだろう。

 それからしばらく彼女と雑談した。
 彼女と話しているとあっという間に時間は過ぎていった。
 少し気になったのは、彼女の距離感がやけに近くて、ボディタッチも多かったことだ。人妻だから……と自制したが、それでも時折彼女の胸が腕に触れたりするのにはドキドキした。
 おしゃべりを楽しみながら愛想よく笑っている彼女の表情からは、彼女が何を考えているのか本心を読み取ることはできなかった。


(続く)