美人キャリアウーマンのヒモになった話(1)
たまに「独身主義者でもないのに30代になっても結婚できない女性には、何かしら理由がある」などと言われることがある。この点について、これまで出会ったきた人物を思い起こすと、ネガティブな理由に限らすとも確かにまあ一理あると思う。当人の価値観や性格に決定的な問題がある場合はもちろん、そうでなくとも単純に出会いがなかったり、仕事が忙しかったり、恋愛経験に乏しかったり、自信がなかったり。そんなところがすぐに思いつく。
そして俺がフリーターだった頃にヒモとしてお世話になっていた女性は、どれに当て嵌まっていただろうかと思い出だすと、見事に全てに該当しており、さもありなんという気持ちになる。彼女は仕事が忙しく、出会いの機会もなく、そのため恋愛経験に乏しく、恋愛面での自信を欠いていた。さらに悪いことには、自信の欠如を糊塗するように、他者に対して高圧的ですらあった。つまり、はっきり言って性格が悪かった。
今の彼女がどのようにすごしているのかは知らない。依然として独身かもしれないし、案外まるくなって結婚して専業主婦でもしているのかもしれない。後者だとすれば、恋愛と性的な事柄に関する彼女の経験の獲得と、そして高慢だった性格の矯正について、少なからず寄与したであろう、自分の功績を誇ってもいいかもしれない。
彼女、田中美沙と出会ったのは、俺が大学を卒業したはいいが定職にもつかず、ふわふわとフリーターをしていた頃のことだ。
当時の俺は住宅地図制作会社で地図調査のアルバイトをしていた。最近はあまり見かけなくなったので、知らない人もいるかもしれないが、世の中には、そこに住む人の名前まで記載された詳細な地図があるのだ。主に郵便局や消防署で用いられているそんな地図の、では居住者をどうやって調べているのかと言えば、これは主に人力である。つまり実際に道をしらみつぶしに歩いて、表札を確認し、ときには住んでいる人と話をして確認をとるのだ。
俺がアルバイトをしていた当時は、もう既にスマホも普及しつつあったが、現地調査は紙の地図を手に行われていた。タブレットが普及した現在では、また事情も違うのかもしれないが、少なくともあの頃は、紙の地図を持って長時間歩くという業務の内容から、雨が降れば仕事は休みだった。そのため俺は、雨が降れば近所の図書館に入り浸り、時間はあれども金はないので、一日中読書をしてすごしていた。ほとんど晴耕雨読ってやつだ。
そんな、晴れたら散歩して雨天なら読書をしていた、ある晴れた日のこと、俺は出来たばかりの大きなマンションのエントランスにいた。奥へ続く自動ドアにはロックがかかっているため、住人でなければそれ以上先へは進めない。管理室らしきものはあるが、常駐しているわけではないらしく人の気配はしない。
このマンションは完成してそれほど経っていないこともあり、現行版の住宅地図には存在していない。俺はざっくりとした敷地範囲や階層構造などを地図の余白に書き込んだ。詳細は本社の正社員に任せるとして、絶対ではないが、できればこの建物の番地も確認しておきたい。マンションの周囲を散策し、どこかに表記がないものかとうろついて、あげくエントランスに入り込んだ次第である。
俺は腕を組んで思案した。このまま帰って、あとはお任せしますで問題ないくらいの仕事はした気がする。別に俺は個人的にこの建物の番地を知りたいわけではないし、これだけ大きくて立派な建物なら、郵便局員や消防署員が見つけられない、などということもありえない。極論このマンションの番地が住宅地図に記載されてなかろうが、別に困る人はいないだろう。
さっさとお暇するかと踵を返したところ、ちょうどこのマンションの住人らしき女性が入ってきた。ショートカットで理知的な印象の女性だ。華美なものではないが質のいいスーツを着こなしていた。落ち着いた切れ長の瞳と小さな唇、すらっとしたスタイルから近寄りがたい雰囲気すら感じる。美人と言って差し支えない容姿だ。その服をはぎ取り脚を開かせたら、高慢な表情がベッドの上でどのように乱れるのか、思わず想像させるような不思議な色気と隙を感じた。
俺は特に考えもなく、引き寄せられるようにその女性に自然と話しかけていた。たぶん、その調査エリアが俺の住んでいる場所と割と離れていたこと、だから彼女にどう思われようが、どうせ金輪際会わないであろうことが、そんな行動を引き起こしたのだと思う。
「お忙しいところすみません、住宅地図調査会社の川上と申します。こちらのマンションは新しく出来たため住宅地図に掲載されていません。差し支えなければ、建物の番地を教えていただけないでしょうか」
俺が話しかけると彼女は少し驚いたように歩みを止めた。話しかけても無視してそのまま通り過ぎそうな雰囲気だったし、実際にそういう人もいるので、俺は少し意外だった。
「番地ですか? この建物のならその辺りにあるんじゃないですか?」
女性にしては少し低めの落ち着いた声が耳に心地いい。艶めかしく動く唇に目を奪われる。
「先ほど少し周囲を歩いてみたのですが、それらしきものはないんです。もしかすると新しい建物なので変わったのかもしれません」
「ふうん」
そう言って彼女は、上から下まで俺を見る。品定めしているような、遠慮のない不躾な視線だった。
「それを教えたとして、私に何かメリットがあるの?」
俺は、うわっ面倒くさい人に話しかけてしまったなあ、と心底後悔した。わずかばかりの職業的責任感を出したばかりにこれである。話しかけなければよかった。適当に切り上げてさっさと立ち去るとしよう。
「特にメリットはないですね。強いて言えば俺の好感度が上がるくらいです。足を止めさせてしまい申し訳ありませんでした」
そう言ってお辞儀をして出口に向かう。さあ、さっさと帰って録画したアニメでも観よう。
「待って」
俺の背中に、そんな声が投げかけられた。何だろう、この上さらに絡むつもりだろうか。自業自得とはいえ、話しかけるならもっと慎重になるべきだったなあ、と思いながら俺は振り返る。
「10番1号よ、ここの番地」
「……ご協力ありがとうございます。失礼しました」
教えてくれたのは意外ではなかった。呼び止められたときに、何となくそんな気はしたから。俺はそそくさとその場を後にする。
「待ちなさい」
「嫌です」
え? と彼女は何を言われたのか理解できないという表情を浮かべる。
「待たないと、不審者を見かけたと通報するわ」
慌てて重ねる彼女の言葉に、それは困るなあ、と思い足を止める。そんなことをされたら日夜市民のために頑張って働いている警察官の方々に申し訳ない。俺は仕方なく、この美人だが傲慢で傍迷惑な女性が警察の手を無駄に煩わせる前に、未然に対応することにする。
「あなたの話を聞いて、俺に何かメリットがあるんですか?」
彼女が先ほど言った言葉をそのまま返す。
「あるわよ」
ふふんと笑い返す。
「私と話せるわ。あなた、私が番地を教えて上げたことで私への好感度が上がったんだから嬉しいはずでしょう」
彼女は自身たっぷりにそう言うと、わざとらしく腕を組んで見せた。形の良い乳房が腕の上で柔らかそうに歪み、俺の視線は迂闊にも引き寄せられる。彼女は勝ち誇るように俺の視線を受け止めていた。
「物事には閾値というものがあるんです。あなたへの好感度はまだ、あなたとの会話に喜びを感じるほどには上がりきっていません」
俺の見え透いた強がりのような返事にも彼女は物怖じせずに笑った。
「何となくそんな気がしたけど、やっぱり、あなた面白いわね。悪いことは言わないから少し家に寄っていきなさいよ。警察や会社には連絡されたくないんでしょう」
悔しいことに、それは確かにその通りなのだ。
「的確に相手の嫌なことを見つけ出す観察力と慧眼に、あなたへの好感度がさらに上昇しそうですよ」
俺は悔し紛れに悪態をつくと、しぶしぶ彼女の要求に従った。
(続く)