憧れていた清楚妻の本性は……(1)

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 僕には人には言えない秘密が二つある。
 一つめの秘密は、学校に内緒でアルバイトをしていること。本来は特段の事情がなければ校則で禁止されており許可が必要なのだが、その特段の事情が無いので、学校には届け出をせずにバイトをしている。
 二つめの秘密は、そのバイト先のスーパーで一緒に働いている女性に恋をしているということ。より正確にいえば、その女性に恋をしたからアルバイトの募集に申し込んだのだけれど。

 彼女は浜辺康江さんという歳上の女性だ。たぶん、だいたい、干支二回りくらい上だと思う。しかも結婚しており子供は二人いて、なんなら長男の方とは同級生だ。
 つまり僕は友人(というほど親しくはないけど便宜上)の母親に恋をしていることになる。一方的で、実る当てのない不毛な恋心だ。

 それでも、ほんの少しでも彼女と接点を持ちたいという思いに背中を押されたのか、なんとなく店内に貼られていたアルバイト募集の電話番号に連絡したら、なりゆきで面接の日程が決まってしまい、いつのまにやら採用されて、僕はこうして康江さんが働くスーパーのバックヤードで力仕事をしている。

 康江さんはレジ係なので、正直なところ期待していたほどの接点はない。だが出勤時や退勤時の挨拶、休憩時間などのちょっとした会話は、僕にとって何事にも代え難い大切な時間だ。優しそうな笑顔で話す落ち着いた彼女の声を聴くだけで胸の高鳴りを感じる。

 憧れの女性と接点ができて会話もできるようになったのだから、ましてその女性は本来手の届かない存在なのだからなおさら、僕は現状に満足すべきなのだと思う。けれども案の定というか何というか、なまじ小さな希望が叶うと、より大きな願望を抱くのが人間だ。もっと親しくなりたいと望んでしまうのは、仕方のないことだと思う。

「康江さんはどうしてここで働いてるんですか?」と訊いてみる。
 彼女は少し考えるような仕草をしてから答える。
「子供も大きくなったし、家に一人でいても寂しいからかな。専業主婦をしてたんだけど、やっぱり社会に出て働きたいと思っちゃって。ここは知り合いも働いているし、家から一番近かったから選んだのよ」
 なるほど、世の奥様たちは案外こういう理由で働いてるものなのだろうか。

「公康くんの家もこの近く?」
「はい、自転車でわりとすぐです」
「そうなんだ。じゃあご近所さんだね」
 康江さんは嬉しそうに笑う。
「公康くんはアルバイトをして、それで勉強もしっかりだからすごいよね。力持ちで優しいし。うちの子も見習って欲しいくらい」などと褒められると、嬉しく思う一方で『ごめんなさい康江さん目当てでバイトをしています。昨日も貴女でオナニーしてしまいました』と申し訳ない気持ちになる。

◆◆◆

 彼女が既婚者で、また年齢も離れすぎていることは、もちろん懸案事項ではあるのだけれど、目下のところ悩ましい問題は別にもある。率直にいえばそれは嫉妬だ。といっても康江さんの夫に対してのものではない。では誰に対しての嫉妬なのかと問われると、それは自分でもよくわからない。

 康江さんに好意を寄せており、目で追ってしまう自分だからこそ気付けたのだと思うが、彼女には時折、ほんの僅かな時間、頬を染めて物思いに耽けるような表情をすることがあった。長くても五秒に満たないような時間、束の間彼女が見せる表情は、同級生の女子達が恋煩いをしている表情によく似ている。

 僕は男女の機微に通じているというわけではない。恋愛経験も片思いの経験ばかり増えている際中だ。それでも彼女の表情を見ていると、康江さんには夫と二人の子供がいるにも関わらず、誰か他に特別な関係の相手がいるのではないだろうか、と邪推してしまうのだ。
 康江さんはスマホの操作には不慣れで設定を手伝ったこともあるから、アプリで出会ったという線はないと思う。となると既婚者であることも踏まえれば出会いの機会は限られるはず。社内の誰かか、それとも学生時代の同級生とか。

 想像の中で康江さんが自分ではない誰かと親しげに絡み合っている光景が浮かぶ。誰かの手が康江さんの体に触れ、康江さんはそれを拒まず、むしろ受け入れている。
「いいの? 旦那さんに怒られない?」
「ばれなければ大丈夫よ、いいからもっと触って」
 想像の中の康江さんは性に積極的で不貞行為を楽しんでいる。
「最近色っぽくなったよね」
「……嬉しい。あなたが毎日褒めてくれるから、きっと私の自信になってるのよ」
 彼女の言葉はどこか表面的で、それよりもセックスにしか興味がないように聞こえる。そして室内に響く、衣擦れの音と荒い吐息、二人の粘膜が触れ合う卑猥な音。

 そんな妄想を膨らませていると、「公康くん」と不意に名前を呼ばれた。気がつくと康江さんが心配そうに見つめている。その顔の近さとまっすぐな視線に思わずたじろぐ。
「大丈夫? なんだか難しい顔で考え込んでいたみたいだけど」
「あ、はい。ありがとうございます」

 貴女の不倫相手を妄想していましたなんて言えるはずもなく、僕が慌てて取り繕っていると、ちょうどそこに店長が現れ「浜辺さんに公康くんも、お疲れ様。そろそろ休憩に入ろうよ」と言うので、渡りに舟とばかりに「わかりました」と答えて誤魔化す。そして『僕がシフトに入るときは、三人で休憩時間が重なる気がするが考えすぎだろうか。もしかして康江さんの不倫相手は店長なのでは』などと、再び余計な詮索と嫉妬に身を焦がすのだった。

◆◆◆

 ある日の勤務でのことだ。たまたま僕はいつもの時間に休憩に行けなかった。店長がレジ応援で出るくらいに店内は盛況で忙しかったからだ。とはいえ30分程度の遅れだったし店長も『お客様も落ち着いてきたから大丈夫だよ、ありがとう』と言ってくれたので、時間差で休憩室に向かうことにした。

 ノックをしてから部屋に入ると、康江さんが掲示板に貼られたポスターを見ているところだった。それは県内にあるアジサイが有名なフラワーパークのもので、ポスターの脇には割引券も設置されていた。
「おつかれさま、公康くん。いまから休憩なのね」と訊かれて、はい、と答えると、彼女はポスターを見ながら話を続けた。
「このフラワーパーク、一度だけ行ったことがあるのよ。まだ子供が二人とも小さかった頃だけど」
 そう語る彼女の横顔は笑顔でどこか寂しそうだ。
「最近は二人とも一緒に出掛けてくれなくなっちゃったけど綺麗だったなあ」

「そうなんですね。僕は行ったことないんですけど……確かに綺麗な写真ですね」
 康江さんの言葉に含まれる寂しげな雰囲気が気になりつつも、それにどう触れていいのか判らず僕は当たり障りのない会話をする。
「公康くんは彼女さんと行ったりしないの?」
「えっ……あ、僕はそういう相手は今までいたことがないので……」
 不意に訊ねられて思わず正直に答えてしまうが、彼女もまた少し驚いたような表情で言う。

「そうなの? 公康くん、格好いいからモテそうなのに」
「そんなことないですよ」
 僕は戸惑いつつも笑ってそう返した。褒めてもらえたのは嬉しいが、目の前の片思い相手との恋は難しそうなので、複雑な気分にもなる。
「公康くんは、恋人が出来たらどこにデートに行きたい? やっぱり遊園地?」
 その質問に思わず息を呑む。意中の異性と恋愛について話す機会など滅多にない僕にとっては、まるで康江さんと次のデートの予定を相談しているような錯覚に陥りそうな状況だ。

「……そうですね。賑やかな場所も楽しそうですけど、このフラワーパークみたいに、思い出に残る場所に行ってみたいですね」
 だから僕はつい、もしも康江さんとデートに行けるなら、という想定で返答をしていた。彼女は既婚者で、だからもし付き合えたとしても、それは長く続けられるような関係ではないだろう。だったら季節が巡るたびに思い出せるような場所がいい。
 彼女は僕の言葉に頷くと、ふと何か思いついたように言葉を続ける。

「そうだっ、じゃあ今度一緒に行ってみない? 割引券もあることだし連れて行ってあげる」
 思いがけない提案をされて、思わず言葉に詰まってしまった。
「私も行ってみたかったんだけど、一人で行くのは気が進まなくて……公康くんも一緒に行こう?」
 一も二もなく「行きます!」と答えたいところをぐっと我慢して平静を装うのに努める。とはいえ自分の目が泳いでいる自覚はあった。

「……えっと、一緒に行かせていただければ嬉しいです」
 そんなしどろもどろの回答に彼女は微笑みながら言った。
「じゃあ約束ね。また予定がわかったら教えて?」
 そういって小指を差し出す康江さんにつられて、僕は自分の指を絡ませた。唐突に憧れの女性と出かける計画が決まってしまい、しかも指切りまでしている。まるで夢のような展開に、僕は喜びと不安の入り混じった複雑な感情を整理できずにいた。


(続く)