通勤途中のレストランで出会った女性店員
厄介な仕事が片付いたので、自分へのご褒美に美味しい料理を食べることにした。通勤途中に車内から見えるレストランが、前から気になっていたのだ。
行ったことがあるよという同僚の話では、明るくおしゃれ雰囲気の店内で、お値段もリーズナブルらしい。料理の味はまあまあだけど、デザートのティラミスが美味しかったとのこと。
いい年をした男が一人きりで、平日の昼間におしゃれなレストランへ行くのは軽めの地獄なので、会社の先輩を誘うことにした。彼女とは今回のように相方が欲しいときにお互い便宜を図り合う間柄なのだが、そのことは本題から逸れるので詳細は省く。
先輩は快諾してくれて、来週にでも休みを合わせて目当てのレストランで食事をすることになった。
◆◆◆
「ふむふむ、セレンディピティって名前のお店なんだ。三人の王子様でもいらっしゃるのかしらん」などと言っているが、今の時期であれば、いるとしても秋の味覚の王様、松茸くらいだろう。
店内に入ると、明るく落ち着いていながらも華のある雰囲気は想像通りだった。平日の昼間なので予約も無しで入れたが、観葉植物やテーブルの間隔にゆとりがある店内は、席数があまり多くなくそれなりに埋まっていた。
店員さんに案内されテーブルに着くと、先輩は「どれにしようかな」とメニューを見ながら目を輝かせている。
「ねえねえ、この『秋鮭とブロッコリーのペペロンチーノ』というの美味しそう。でもこっちの『豚バラ肉のバスク風煮込み』も捨てがたい。鈴木君はどうする?」
「俺は『きのこたっぷりのチーズハンバーグ』ですね。あと飲み物は……へえ、ノンアルコールのワインなんてあるんだ」
「私、運転するから普通の飲んでもいいよ」
「ありがとうございます、じゃあ赤ワインを一杯だけ」
「店員さん、注文をお願いします」
数分後に、注文した料理が運ばれてきた。先輩は「いただきます」と快活な声で言ってフォークを手に取る。俺は行儀良く両手を合わせて「いただきます」と言ってからフォークを手に取った。
食事中は仕事の話題や最近観た映画の感想、他愛もない世間話などをした。あまりお互いのプライベートな部分まで立ち入らないのが、先輩との心地よい距離感だった。
適当なタイミングでデザートが運ばれてくる。「ティラミスとホットコーヒーです」と店員さんが言った。
先輩はスプーンを手に取り、ティラミスを口に運ぶと「んー、美味しい!これはいくらでも食べられるわ!」と言いながら次々に口へ運んでいく。俺も一口食べたが、確かになかなかの味だ。先輩のテンションが上がるのもわかる。
来てよかったとしみじみ味わっていると、先輩が「ねえ、あれってイベントで弾いたりするのかな」と言いながら、店内のピアノを指さしている。それについては俺も気になるが、変に悪目立ちしたくないので、さあどなんでしょうね、と答えておく。この店にはまた来たいので無害な客でいたい。
「誕生日とかクリスマスとか、そういう特別なサービスはありそうですよね」と答えながら、そのピアノを弾いてくれるのがどんな人なのか想像するにとどめた。
すると俺たちの会話が聞こえていたらしい店員さんが、よかったらお弾きしましょうか? と提案してくれる。どうやら特別なイベントというのは日常に潜んでいるものらしい。
先輩は俺に譲るつもりらしく黙ってチェシャ猫みたいに笑っているので、「じゃあ『なんでもない日おめでとう』をお願いします」とリクエストすると、店員さんにきょとんとした顔をされた。可愛い。というか、よく見たらこの店員さん美人だな。
店員さんは、申し訳ありません存じ上げなくて……と恐縮しているので、なんだかこちらまで申し訳なくなる。
「あ、別にその曲じゃなくても大丈夫です。弾かれる方の好きな曲とか、雰囲気に合う曲をお願いします」
俺が慌てて撤回すると、店員さんはパッと表情を明るくして「わかりました! おすすめの曲を弾くので聴いてください!」と前のめりでやる気だ。
先輩も俺も呆気に取られてぽかんとしていると、店員さんは顔を赤くして恥ずかしそうに「すみません……お客様がうちのお店を気に入ってくださったのが嬉しくて……」と言って俯いた。いちいち可愛い。恥ずかしそうにする店員さんを見て、俺と先輩は顔を見合わせて笑った。
◆◆◆
食事を終えて店を出ると、外は薄暗くなっていた。最近、日が暮れるのが早くなった気がする。
「美味しかったね。また来たい」
「そうですね、俺も次からは一人でも来れそうです」
「え、それはだめ。私がいる時にしてよ」
先輩はそう言って笑った。本気ではないと解っているので俺もつられて笑う。
お店の駐車場でそんな他愛もない話をしていると、先ほどピアノを弾いてくれた店員さんが、ちょうど帰るところらしく挨拶をしてくれる。
「今日はありがとうございました。またいつでもいらしてくださいね」
俺はそんな彼女の笑顔を見ながら、ふと聞きたかったことを思い出した。
「そういえば、あの弾かれていた曲は、なんというタイトルなんですか? とても素敵な曲でした」
「お気に召していただけて嬉しいです、あの曲はプロコフィエフという作曲家の曲で……」
そう言って楽しそうにひとしきり説明をしてくれると彼女は、
「あ、ごめんなさい。つい夢中になって話してしまって」と恥ずかしそうにして、それから少しためらう素振りを見せた後で、意を決したように口を開いた。
「あの、もし嫌じゃなかったら、メッセージアプリの連絡先交換なんてしてもらえませんか……。おすすめの曲とか、もっとお話したいので」
彼女は顔を真っ赤にして、もじもじしながら俺の返事を待っている。俺は「いいですよ」と答えてスマホを取り出した。
◆◆◆
「鈴木君って、ああいうのに弱いよね」
「え? ああ、まあ可愛い子でしたね」
こうして俺と先輩は帰途についたのだが、車を運転しながら先輩が話すのは先程の店員さんの話題だ。
「ねえ、あの店員さんの名前、聞いた?」
「いえ」と俺が言うと、彼女は少し間を置いて言った。
「なぜか鈴木くんへの好感度いきなり高めだったよね」
「そうですか?」
「そうだよ。気づいてなかったの? 食事中もなんだか気にしてたし。たぶんピアノを弾いてくれたのも鈴木くんだからだよ」
「そんなことないでしょ」
先輩は呆れたような目で俺を見る。
「ほんと、そういうとこだよ鈴木くん……」
そして独り言のように呟いた。
「いつか刺されるんじゃない? 先輩心配」
「それ韻を踏みたいだけでしょ」
「バレたか」
そんなやりとりをしているうちに、車は俺のマンションに着いた。
「今日はありがとうございました。また会社で」
「うん、またね」
そう言って俺たちは別れた。
◆◆◆
その晩、風呂から上がってスマホを見ると、メッセージアプリの通知があった。
『今日はありがとうございました。とても楽しい時間を過ごせました』
それはあの店員さんからのものだった。
どちらかというと楽しい時間を過ごしたのは、客であったこちらの台詞なのではと思いつつも、
『こちらこそありがとうございました。料理はもちろんピアノの演奏も素敵でした』と返すとすぐに既読がついて返事が返ってきた。
『もしよかったら、これからも仲良くしてもらえませんか?』
断る理由もないので了承すると、彼女は可愛らしいスタンプを送ってくる。なんか不思議な人だな、と思ったが悪い気はしなかった。
それから彼女とのメッセージのやり取りが始まった。彼女は『河合』さんというらしい。
河合さんはピアノを弾くことが好きで、休日はよく練習している。また料理も好きで、特にお菓子作りには自信があり、いつか自分のお店を持つのが夢だと語っていた。
そんな日々の他愛もないやり取りを続けていたある日のこと、彼女からこんな提案があった。
『もしよかったら今度一緒に出かけませんか? お買い物とか映画とか』
俺は少し考えてから『いいですよ』と答えた。
『やった! 楽しみにしてます!』
そのメッセージを見て、俺も自然と笑みがこぼれた。
◆◆◆
そしてデート当日、待ち合わせ場所に着くと、彼女はすでにそこに立っていた。すらりとしたスタイルと綺麗な横顔に思わず見惚れてしまうが、すぐに声をかける。
「すみません、お待たせしてしまいましたね」
すると彼女はこちらを振り返って微笑む。その照れたような表情がとても可愛らしくてドキリとした。
「いえ、私も今来たところです」
そんな定型的なやり取りをしている自分たちがおかしくて、お互いにくすくすと笑い合う。
「あの、今日は本当にありがとうございます。こうしてお出かけしていただいて」
そう言ってはにかむ彼女を見ているとこちらまで幸せな気分になり俺も自然と笑顔になっていた。
彼女はほっとした顔をすると、急に俺の手をぎゅっと握ってきた。予想外の行動だったので驚いていると、上目遣いでこちらを見て恥ずかしそうにしながらもこう言った。
「今日はせっかくなので恋人らしく振る舞いませんか」
どうにかそう言うと、彼女もまた照れた様子で俯いたまま黙ってしまう。
そんな反応を見ていると俺も急に緊張してきたが、ここで手を跳ね除けるのも不自然な気がして彼女の手を強く握り返した。すると彼女もそれに応えるように強く握り返してくるものだからますます心臓が高鳴った。
それから色々なところを回ったのだが彼女と一緒だとどれも楽しかった。映画を観てカフェで感想を言い合ったり、一緒に服を選んでみたり……そうして時間はあっという間に過ぎていく。
夕方になり帰ろうとすると、彼女は名残惜しそうな顔をしていた。なので俺は思い切って、
「あの、よかったら家に来ませんか?」と誘った。よく考えれば俺から彼女に対して自発的なアクションをしたのは始めてた。
彼女は驚いたような嬉しそうな顔をしてすぐに了承してくれたので、二人で俺のマンションへと向かった。
◆◆◆
移動中から俺の部屋に入るまでの間ずっと、彼女はそわそわしていた。手を繋ぐだけではなく腕を絡めて来たり、絡めた腕に胸を押し付けよううとして身長差から失敗したり。そんな彼女と一緒に歩いていると俺の中に愛しさがどんどんと募っていく。
部屋に着き玄関に入ると、彼女は待ちきれないとばかりに抱きついてきた。俺はそんな彼女を優しく抱き留めると唇を重ねた。最初は驚いていた様子だったものの嫌がる素振りはなく、むしろ積極的に応えようとしてくれているようで嬉しくなった。
しばらくお互いの存在を確かめ合うかのような長い口付けを交わすと、触れ合うだけだったキスがお互いを求め合うように激しくなっていく。キスをしながら彼女を見ると、蕩けた表情でこちらを見つめてくるものだから、余計に興奮してしまい深く濃厚なキスをした。
そのままベッドへなだれ込むように移動して何度も愛し合う。お互いを求め合うように激しく抱き合い最後は同時に果てた。
行為が終わると彼女は俺の腕の中で幸せそうな表情を浮かべていた。その顔を見ているうちに愛おしさが込み上げてきて頭をなでる。すると彼女は照れながらも微笑んでくれたので、それが嬉しく抱きしめると彼女もそれに応えるようにぎゅっと抱きしめ返してくれた。
その後、俺たちは裸のままで抱き合っていた。お互いの体温を感じながら心地よい疲労感に包まれていると自然と笑みが溢れてくる。こうして彼女と過ごす時間は本当に幸せだ。このままずっと一緒にいたいと思ってしまうほど彼女のことを愛してしまっている自分に驚いたが不思議と納得できた。きっとこれが恋というものなのだろうと思う。
「あの……鈴木さん」
話しかけてきたので彼女を見ると、少し不安そうな表情を浮かべている。
「どうしましたか?」と俺が尋ねると彼女は恥ずかしそうにしながら言った。
「その……私は、鈴木さんの彼女になれた、ということでいいんでしょうか」
その言葉に少し戸惑うが、改めて自分の気持ちを伝えるために彼女を抱き寄せて耳元で囁いた。
「もちろんですよ」
すると彼女が安心したように微笑むので、なんだか俺も幸せな気持ちになる。
「そういえば、俺からも質問なんですけど、いいですか?」
彼女は俺の隣で安心し切った猫のようにくつろぎながら、
「はい、なんでもどうぞ」と答えてくれた。
「もしかして以前にどこかで会ったことがありますか?」
すると彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔になってこう言った。
「どうしてそう思うんですか?」
「気のせいだったら恥ずかしいんですけど、初めてレストランに行ったときから、なんだか気にされているようだったので」
彼女が俺を気にしていたみたい、というのは先輩からの受け売りだが、確かに思えば彼女は初対面から妙に俺に対して積極的だ。
すると彼女は少し考え込んでから、
「実は何度かお見かけしたことがあったんです」と懐かしむように答えた。
「え、そうなんですか?」
「はい。と言っても私が一方的に見かけただけですけどね」そう言って悪戯っぽく微笑む。
「鈴木さん、いつも私たちが道を渡るときに停まってくれますよね」
最初は何を言われたのか解らなかったが、やがておそらく朝の通勤時間のことだろうと思いいたる。
「それで、いつも素敵な人が停まってくれるな、って思ってたんです。そしたらまさか働いてるお店で会えるなんて思わなくて」
そう言って彼女は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見ているとなんだか照れ臭い気持ちになってきてつい視線をそらしてしまう。
彼女は俺の手に自分の手を重ねて指を絡めてきた。突然のことで驚いて彼女の顔を見ると、彼女は照れているのか俯いていた。
「あの……私、鈴木さんのことが大好きです」
そう言って微笑む彼女の表情はとても美しくて見惚れてしまう。俺はそんな彼女を優しく抱きしめて耳元で囁くように言った。
「俺もだよ」そして再び唇を重ね合わせたのだった。
その後、彼女が俺と付き合うようになり、同じくレストランで働く別の女性店員たちも交えて、抜け駆けだなんだとすったもんだあったらしいのだが、それはまた別のお話。
(終)