路面電車で出会った女性との、白昼夢のような日々に迷い込んでいる(3)
僕たちはいろいろな話をした。沙耶さんは喫茶店を営んでいる祖母と二人で暮らしているそうだ。ご両親は県外に住んでおり、彼女は大学進学を機にこの街に移り住んだらしい。
「もう10年以上になりますから、感覚的にはここが一番住み慣れています」
そう笑いながら話す沙耶さんに見惚れつつ、密かに年齢を計算して驚いたのはここだけの話だ。年上かもしれないという気はしていたが、二つか三つくらいだと思っていた。
驚いたことといえばもう一つ、彼女が既婚者だったということだ。とはいえ現在は別居しており離婚調停中とのこと。子供もいないので、このままそうなるんでしょうね、と彼女は落ち着いた様子で語った。
「……でも、壮馬さんは私が結婚していたことと、あと年齢にも驚いていたみたいですね」と、今度はからかうように僕を見た。
「……すみません」僕は思わず謝る。
「ふふ……冗談です。私、子どもの頃は大人びて見られてたのに、大人になってからは若く見られがちなんです」
まるで悪戯が成功したように笑うので僕も笑うしかない。移り変わる彼女の表情に、ずっと心臓が高鳴っていた。
それから僕たちは一緒に駅前のカフェを出て帰路についた。彼女との時間が永遠に続けばいいのにと落ち込んだが、沙耶さんの「今度はうちの喫茶店にいらしてください。特製のブレンドコーヒーをご馳走しちゃいますよ」という言葉で元気になるのだから単純なものだ。
その勢いに背中を押され、「もしよければ連絡先を交換してもらえませんか?」と勇気を振り絞って聞いてみると、沙耶さんは快く応じてくれた。「もちろんです。これからもよろしくお願いします」と彼女は優しく微笑む。
僕たちはスマートフォンを取り出して、お互いの連絡帳に新しい名前が加わるのを確認した。
◆◆◆
それからというもの、僕は沙耶さんに会うために足繁く彼女の祖母が営む喫茶店に通った。たまに沙耶さんがいて「いらっしゃいませ」と微笑むだけで僕の心は満たされた。
ある日のこと、仕事の空き時間に喫茶店に立ち寄ると店内に誰もいない。どうしようかと迷っていると、奥から声が聞こえた。どうやら誰かが話しているらしい。断片的な会話が気になり声のする方へ向かうと、沙耶さんと彼女の祖母が和やかな雰囲気で話していた。
「あら壮馬君」と老女が僕に気づいて声をかける。
「こんにちは、勝手に入ってしまいました」と僕は慌てて頭を下げた。
「お好きな席へどうぞ」沙耶さんが微笑みながら言う。「いつものブレンドコーヒーにしますか?」
僕は頷くとカウンター席に座ったが、先ほど漏れ聞こえていた二人の会話が気になっていた。どうやら沙耶さんは最近よく出かけるようになったらしい。祖母はそのたびに行き先を尋ねるのだが沙耶さんは答えない。
「もしかして誰かと会っているのかしら?」と冗談めかして尋ねられると、沙耶さんは黙って微笑んでいた。
僕はコーヒーを飲み終えると早々に店を出たが、移動中も頭の中は沙耶さんのことでいっぱいだった。一体誰と会っているのだろう? まさか男だろうか。そんな不安ばかりが募っていく。
沙耶さんとはメッセージアプリのIDを交換しているから、その気になれば質問するのは簡単だ。しかしそんな簡単なことが僕にはできなかった。今日の出来事や共通の趣味の話題など、当たり障りのないメッセージのやり取りをして、気が付けば就寝時間になり『おやすみなさい』と送り合う日々が続いた。
◆◆◆
カランコロンとベルが鳴り「いらっしゃいませ」と沙耶さんが出迎えてくれる。
僕は彼女がいつも通りの笑顔でいることに安堵する。
「壮馬さん、今日も来てくださったんですね」と沙耶さんが嬉しそうに微笑む。
「ええ、まあ」とかなんとか僕は曖昧に返事をする。
「ちょうどよかった。どうぞお好きな席にかけてお待ちになってください」
沙耶さんはそう言うと入口の扉へ向かい、表の看板をOPENからCLOSEDに変えた。
それから特製のブレンドコーヒーを二つ用意すると、僕の座るテーブルに置いて彼女は対面に腰を下ろす。僕と沙耶さんのコーヒーが置かれたことは解ったが、なぜこの状況になっているのかは理解できなかった。
「昨日、無事に元夫との離婚が成立しました」
と、唐突に沙耶さんは切り出した。
「これで私は自由の身です」
彼女は微笑みながら続ける。
「すぐに他人になれるわけではないのでしょうが……それでもただの他人になりました」と彼女はこともなげに言う。
「これからは自分のために生きられます。もっとも、それが喜ばしいことなのかどうか、私にはまだわかりません」
そう言って彼女は窓の外を見た。その横顔はとても美しくて思わず見とれてしまういそうになる。しかし同時に彼女がどこか遠くへ行ってしまうような予感がした。
だから僕は慌てて口を開いたのだ。
「……もしかして……ご実家に帰られるんですか?」
気がつけばそんなことを口走っていた。
僕はどんな顔をしていたのだろう。もう沙耶さんに会えなくなると絶望していた自覚はあるが、沙耶さんも驚いたように目を丸くしていた。
「あ……」と我に返って恥ずかしくなるがもう遅い。どうしようかと思い焦っていると、彼女は静かに微笑んだ。
「そんなに寂しそうな顔をしないでください。私はいなくなったりしませんから」
彼女はそう言って僕の手を握る。あたたかくて柔らかい感触が伝わり安心する。
「でもその……一緒に実家に来てもらえるなら、それはそれで嬉しいです」と沙耶さんが珍しく照れながら言った。
「え?」僕は思わず聞き返す。
「ご迷惑がかからないように、今まで言えませんでしたけど、私とお付き合いしていただけませんか?」
それはあまりにも突然で、それでいて衝撃的な言葉だった。だから僕は思わず聞き返した。すると彼女はもう一度同じ言葉を繰り返す。
「私とお付き合いしてもらえませんか?」
彼女の口調は丁寧だったけれど、そこには有無を言わさぬ確信があった。
「はい」と僕は自動的に答えていた。拒否する選択肢はどこにもなかった。
「壮馬さん……好きです」
そう言って微笑む彼女はとても美しかった。
僕はまるで夢の中にいるような錯覚に陥る。同時に背筋にぞくりとした寒気のようなものが走る気がして、いまさらながらに自分が深い迷路の中に足を踏み入れていたのだと知った。
◆◆◆
それから僕たちは交際することになった。男女の関係になり今までよりも深く触れ合うようになっても、依然として彼女は、僕にとって全てを知り得ない謎に満ちた存在であり続けている。
「お食事の用意ができました」と、エプロン姿の沙耶さんがリビングに入ってくる。今日のメニューは和食のようだ。テーブルの上に並べられた料理を見て思わず感嘆のため息を漏らす。どれも美味しそうだ。
「いただきます」と言って箸をつける。一口食べてみるとやはり美味しい。特に煮物は絶品である。僕が夢中で食べている様子を眺めていた彼女は嬉しそうに微笑む。その笑顔を見ると胸が高鳴るのを感じた。
食事を終えて後片付けをしている彼女の後ろ姿を眺めながら思う。
彼女と出会ってまだ一年も経っていない。しかし僕の人生は大きく書き換えられたような気がする。
今までの人生からは考えられない幸福に包まれている。彼女がそばにいてくれるだけで毎日が輝いて見える。その一方で、現在が過去からの連続であると感じられない自分がいる。
「どうしました?」
洗い物を終えて戻ってきた彼女は、僕の様子を不思議に思ったのか首を傾げる。そんな彼女が愛おしくて思わず抱きしめていた。僕の迷い込んだ迷路が彼女自身であったとしても、その迷路の中で僕が縋れるものもまた彼女以外に存在しないからだ。
「もう……まだダメ。汗をかいて恥ずかしいから、一緒にシャワーを浴びましょう?」
彼女はそう言いながらも抵抗はしない。むしろ自分から僕の方へと体重を預けてくる。そして気が付けば口づけを交わしており、甘くて蕩けるように時間は溶けていく。
彼女は硬くなった僕のペニスを取り出すとゆっくりと上下に動かす。
「……もうすごく大きくなってる」と彼女は嬉しそうに笑った。
「沙耶さん……」と名前を呼ぶと、彼女は応えるように顔を近づけてくる。そしてもう一度唇を合わせてお互いの舌を絡め合う。唾液が混ざり合い卑猥な音が耳に届いて興奮を高める。
「まだダメって言ってるのに、ぎちぎちに硬くして……そんなに私の中に入りたいですか?」
沙耶さんは蠱惑的な笑みを浮かべて言う。
それは質問のようでいて、実際には彼女の膣内に早く挿れたいという欲望で僕の心を支配するための言葉だ。だから彼女は焦らすように僕の陰茎をそっと撫でるだけで挿入しようとはしない。
「私の中も、壮馬さんの大きいのが欲しいって言ってるみたいです……」
耳元で囁かれた言葉はあまりにも刺激的で淫らだった。恥ずかしさと同時に興奮が高まっていくのがわかる。
「沙耶さんの中に入りたい……お願いです」懇願するように言った瞬間、僕のペニス全体が彼女の両手で包み込まれ、抵抗の余地なく先端から精液が溢れ出た。
「ふふ……入れる前に出ちゃいましたね」
沙耶さんはそう言うと膝立ちになり亀頭を咥え込む。そのまま陰嚢を揉みながら尿道に残っていた精液を吸い出していった。
「シャワーを浴びて綺麗に流しましょう」
彼女は僕の全てを見透かしているようだ。僕がもう彼女の虜になっていることも、どうすれば僕を操れるのかも完全に理解している。
「今日は新しい入浴剤を試してみようかな……壮馬さんは好きな香りはありますか?」
上目遣いで問いかけてくる姿はとても可愛らしいが、その瞳は僕を完全に支配していた。僕の人生と彼女の人生を区別することなどもうできない。彼女なしで生きていくことなど考えられないのだから。
「沙耶さんの……好きな香りがいいです」
そう答えると彼女は嬉しそうに微笑んだ。そして僕にキスをした後、浴室へと向かう。僕もその後に続くと、彼女は自分の服を脱ぎ捨てて一糸まとわぬ姿になっていた。
◆◆◆
ときどき僕は自分が夢を見ているのではないかと不安になる。
彼女の存在はそれくらい僕にとって非現実的だから。
例えばあの日、彼女と出会った路面電車の中で、僕は居眠りをしたまま目覚めなくなってしまったのではないか。そんな不安に突き動かされて、僕はこんな文章まで書いている。
彼女はおかしそうに笑って、私はここにいますよ、と唇を重ねてくる。その感触だけは真実だと信じられる。だから僕は彼女を追いかけ続ける。
「ねえ」と沙耶さんが僕の耳元で囁く。
「私のこと、好き?」彼女は悪戯っぽく微笑みながら僕を見つめる。
僕はその質問に答えることができなかった。好きという言葉ではとても足りないほどの感情を抱いているのに、それを正確に表現する言葉が見つからないから。そんな僕を見て彼女はくすりと笑う。そして僕の首に腕を回して抱き寄せたかと思うと耳元で囁いた。
「愛してるって言ってみて?」
鼓膜を通して脳髄にまで響き渡るような錯覚を覚えるほど、甘く蕩けるような声だった。
「愛しています」と僕は言った。それはまるで魔法の言葉のように感じられた。
「よく言えました」と彼女は満足そうに告げて、僕の頭を撫でてくれた。
そして彼女はゆっくりと足を開きながら僕を誘うような仕草をする。
「さあ、こっちへ来てください」と誘われるがままに彼女の秘部へと挿入する。僕は全身が溶けてしまいそうなほどの快感に襲われる。
沙耶さんは僕を抱きしめて言った。
「壮馬さん……大好きです」
その言葉に応えるように僕は抽送を続ける。熱くなった肉の塊が出入りするたびに、彼女は甘い吐息を漏らして僕の背中に爪を立てる。それが余計に興奮を煽り立てると知っているのだ。まるで獣のように激しく腰を打ち付けながら、僕たちは快楽の頂きへと上りつめていく。
(終)