職場の近くで見かける人妻事務員との秘密の逢瀬

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 いつから人は「おっさん」になるのだろう。
 辞書によれば「中年」の定義は概ね40歳前後から50代後半が当てはまるそうだ。
 同様に「おっさん」ないしは「おじさん」についても調べてみると、こちらは中年よりも期間の幅が広く、早ければ30代半ばから60代半ばまで、要するに定年に達する頃までが該当するようだ。
 とすれば、中年集合はおっさん集合に包含されているわけで、私は少なくとも「おっさん」ではあるのだろう。それは自己認識と照らし合わせても異議はない。

 そんなことを考えながら私は今日も、昼休みに会社近くにあるスーパーのお惣菜コーナーで、おっさんらしい軽めの昼食を吟味していた。私くらいの人生中堅どころにもなると、胃もたれや食後血糖値など気にすることが多いのだ。
 パッケージの炭水化物の値を見比べながら、唐揚げにするか餃子にするか迷っていると、サラダに手を伸ばす女性の左手が視界に入った。

 彼女のことは知っている。
 このスーパーで昼によく見かける中年の女性だ。おそらく私よりもそこそこ歳上。いつも事務職然とした制服を着ているので、彼女も私と同じく近くに職場があるのかもしれない。相手も私の顔を見知ったものとして認識しているようで、私たちは互いに軽い会釈を交わす。

 特に根拠はないので私の思い込みだと反論されたらそれまでなのだが、私と彼女は似ている、と思う。
 まず私と彼女は共に中年集合に属している。次に私も彼女も既婚者である。彼女の左手薬指のリングは結婚指輪と考えて差し支えないだろう。そして私も彼女も、仕事と家庭に責任を負いつつも毎日に退屈と不満を感じている、たぶん。

 そういう諦観は、おそらく日常生活の端々に現れるのだと思う。スーツのシワ、髪を切る頻度、爪の長さ、メイクにかける手間、そして昼食。私にも彼女にも、お弁当を作るべき相手も作ってくれるような相手もいない。
 だから私はときどき、彼女に声をかけたくなる。もっと彼女の人となりを知りたくなる。ナンパとか出会いとかそういうのではなく、彼女と親しくなりたいと思うことがある。もちろん実際に声をかけることなんてしないが、それでも想像はしてみる。

◆◆◆

 まず何と声をかければいいだろう。私の言葉に対して彼女はどんな反応を示すのだろうか。
 想像の中の彼女は私と似ているので、私が慎重に選んだ言葉であれば、決して嫌な顔はしない。むしろ退屈な日常に紛れ込んだ非日常を歓迎しさえする。彼女自身も私が自分と似ていると認識しており、二人の関係がお互いにとって安心できる、互恵的でコントロール可能な刺激であると判断する。

 あるいは私が彼女への言葉を選んでいる間に、彼女の方から私に声をかけてくるかもしれない。
 きっとその日は店内のイートインスペースが混雑している。彼女は窓際のカウンター席で昼食をとる私を見つけて声をかける。
「すみません、こちらの席に座ってもいいですか」
 私は顔を上げて彼女と視線を交わし頷く。そして、愛想よく「どうぞ」と応える。

「ありがとうございます」と彼女は言い、隣の椅子に腰を下ろす。私たちは軽く挨拶を交わすと、ほとんど同時に食事を始めるだろう。
 その日から私たちは、同じスーパーでたまに昼食を一緒にする。いつもではなく、あくまでたまに。その偶然は何度も意図的に繰り返されて、日々のちょっとした楽しみになる。仕事や家庭で嫌なことがあっても忘れられる、ご褒美の時間。

 私と彼女は、店内で会っても会釈を交わすだけで、おしゃべりはしない。互いのプライベートに深入りしないし、詮索もしない。信頼を積み重ねていけば、親愛の情を抱くようになるのは必然だ。
 人間関係は不可逆的で、私たちは類型的な男女関係の枠組みに慣れすぎているから、好むと好まざるとに関わらず時間経過に伴い関係性は徐々に進む。年齢も仕事も知らないまま、私は彼女のことをきっと好きになるだろう。そして彼女もまた私のことを嫌いにはならない。
 流された男女は戸惑うように互いの肌と肌を重ね……私はそこで想像するのを止める。
 ジャケットで隠せないズボンの前を膨らませるのは、あまり見栄えのいいものではないからだ。

◆◆◆

 今となっては現実は想像を追い越して、私たちは月に1回か2回、ホテルに行きお互いの生活の欠けた部分を埋め合う関係になっている。
 昼食を終えた彼女は、机の下で私の手に触れて囁く。
「これで終わりじゃないですよね」
 私も彼女の手を握り、指を絡めながら答える。
「うん、これで終わりじゃない」
 私たちは、お互いのことをよく理解している。だからこの関係は長続きするし、私たちはお互いに好きであり続けるだろう。

 終業後、私たちは示し合わせたようにスーパーの駐車場でばったり出会う。片方の車に二人で乗り、ホテルへ向かう。
 部屋に入ると私たちは服を脱がせ合いながら、ベッドの上でキスを交わし合う。軽いものから長いものまで、様々なキスを何度も繰り返す。そしてお互いの体を触り合い、全身をくまなく愛撫しあう。私は彼女の陰部に舌を這わせながら、手を伸ばして彼女の乳房を揉む。彼女は私の陰茎を握り上下させながら舌先で亀頭を刺激する。

 しばらくそうしていると彼女が我慢できないといった様子で私に言う。「もういれてほしい」と。
 私はそれに頷いてコンドームを装着して正常位で彼女を抱く。私たちは何度もお互いを求め合い、その都度それぞれの体に夢中になる。行為が終わった後に彼女は私の方を向いて言うだろう。
「これきりじゃないですよね」
 そして私もまたその言葉に頷く。
「もちろんです。また逢いましょう」

 彼女は射精したばかりの私の陰茎を、慈しむように指でなぞる。私もまた彼女の開いた陰部に触れて、その残り火を確かめる。
 私たちは満足するまで互いの体に触れ合う。二回目をするような時間はない。私たちは職場と家庭の間の空白の時間にいるときだけ、社会的な属性を脱ぎ去った裸の姿でいられる。お互いにそれをわかっているから何も言わない。ただ相手の身体に灯る種火を見つめるだけだ。
「ありがとうございます」 
 ホテルを出てスーパーの駐車場に戻った私たちは、それぞれの居場所へと帰っていく。そしてまた次の逢瀬を楽しみにしながら、日々の仕事と家庭生活に組み込まれる歯車になる。

◆◆◆

 私たちの人生は、たぶんそこそこの幸せで満たされている。
 私たちには好きな人がいて、相手についてほとんど何も知らない。名前も年齢も住んでいるところも。ただ私たちは月に一度か二度、ホテルで一緒に過ごし、お互いの身体に夢中になる。それでいいし、それ以上は望まない。
 この私たちの関係を何と呼べばいいのか、私にはよくわからない。恋人でないことは確かだ。同様に不倫であることも。ただ後者に関しては私たちが既婚者であるという外的要因に依拠しているので、二人の関係を表すというよりは立場を表しているともいえる。

 では社会的立場を無視したとして、私たちはどういった関係なのだろう。お互いに身を焦がすような恋愛感情を相手に感じているわけではない。結婚しているから感情にブレーキをかけているというわけではなく、私たちの間に本能に根差す生殖欲求を美しくラッピングしたような恋愛感情はない。
 好きであることは確かだ。仕事でもないのに嫌いな相手と体の関係をもつはずもない。相手に対し親愛の情を感じているし、一緒にいて楽しいとも思う。お互いを大切な愛おしい存在だと思っている。

 一般的には、この関係に名前をつけるとしたら「友人」あるいは「セックスフレンド」が適当なのかもしれない。だが少し味気ない。合理的ではあるが私は彼女のことを「友人」と呼びたいわけではないし、かといって単なる知人とも呼びたくない。
 確かに性行為がもたらす快楽、ことに彼女が男性を悦ばせるために自分ができることは何だろうと考え、20年以上の研鑽を積んだ口腔性技に関しては、詰将棋のように手際よく私を絶頂へと導き夢中にさせているわけだが、それはあくまでも私の性的嗜好の問題であり、二人の関係性とはまた別の話だ。

 たぶん身体の関係を持つのは、お互いの愛情を端的に表現する行為として、それが解りやすく便利だからだ。
 物理的に体の奥深くで繋がるという意味でも、文化的に男女関係の進展における終着地点であるという意味でも。
 もしも男女の親愛を表す最終的な行為が何か別のもの、例えば一緒に旅行をして同じ景色を見て同じ食べ物を食べて、お互いの言葉に耳を傾けて感情と思い出を共有することであるならば、私たちはそうしていると思う。
 もっとも実際にそれを行うとなると、近場のホテルに行く以上の手間暇がかかるわけで、逢引の頻度は下がるだろうと予想される。

 とはいえ思いつきで書いたが、旅行をするというのは、そう悪いアイデアではないかもしれない。二人で時間を作り遠出してみようか、有給休暇を使い休みを合わせれば、日帰り旅行くらいなら可能だろう。もしかするとただ旅先で非日常を味わうだけでなく、私たちにとってこの関係が始まるきっかけになった「偶然」と同じものを、もう一度経験することができるかもしれない。
 似たもの同士である彼女もきっと賛成するだろう。

「今月、どこかで時間をとれますか? よければ一緒に日帰りで旅行に行きたいんです」
 彼女は少し驚いたような表情を浮かべて言う。
「はい。でも珍しいですね。あなたはそういうことには興味がないと思っていました」
 私は頷く。
「たまにはそういう非日常もいいでしょう。休みを合わせて、おいしいものを一緒に食べて、同じ景色を見て思い出を共有するんです。いいと思いませんか?」

 彼女は私のネクタイの結び目に触れながら言う。
「このネクタイも外して、シャツも脱いで、ですか?」
 私は答える代わりに彼女の手を取り、その指先にキスをする。
 彼女は少し照れたような微笑みを浮かべながら頷く。
「いいですね、誰にも内緒で。まるで共犯者みたいに」


(終)