朝の通勤電車から始まる恋の物語
失業したので職業訓練に通うことにした。給付金を貰いながら資格を取れるので、これはいいやと思い申し込んだのだ。授業は朝9時から夕方5時まで。土日祝日は休み。なんてホワイトな環境だろう。俺は毎朝7時に起床し、駅まで30分かけて歩き、資格取得の勉強をして夕方6時頃には帰宅するという、健康で文化的な生活を謳歌した。
そんな毎日の中で僕には密かな楽しみがあった。それは毎朝の通学電車内で見かける一人の女性だった。身長は150cmくらいで小柄でやや細身である。年齢はよくわからないがおそらく20代後半だろう。彼女は千鳥模様のコートを着てベージュの鞄を持ち、車内ではスマートフォンを見ていることが多い。おそらく他の電車からの乗り換えなのか、彼女は僕よりも後に乗り込んで来ることが多かった。僕と彼女は毎朝同じ電車に乗り、同じ車内で20分ほど過ごし、同じ駅で降り別々の改札口から出ていった。
僕が彼女に目を奪われていた理由は色々ある。派手で目を引くような美人ではないが整った顔立ちをしていたり、いまいち職業や生活環境の見えてこない身なりであったり、でも何よりも僕の目を惹いたのは彼女の長く美しい黒髪だった。僕は別に黒髪が好きなわけではないし、なんならパーマヘアの女性の方が好きなのだが、彼女の艶やかな髪とそれを器用にまとめる指先はとても美しかった。
だから僕は電車内で彼女を見つけると、その姿を密かに目で追っていた。もちろん彼女は僕のことなんて意識していないだろう。でも、もし僕の視線を彼女が感じていて、そして僕の視線に気付いた彼女が「私を見ていますか?」と話しかけてきたらどうなるのだろう……そんな妄想を毎日頭の中で繰り広げていた。だが良くも悪くも現実ではそんなことは起こらない。僕は毎朝の電車の中で、ただ彼女の姿を眺めているだけで満足だった。
◆◆◆
ある日、いつものように電車に乗り僕はいつもと同じ席に座った。その日は少し混んでいたので座席はすぐに埋まっていった。彼女は電車に乗ると僕の前のつり革に掴まった。彼女が目の前にいることに少しドキッとしたが、平静を装って文庫本を読み続けた。しかし彼女は吊り革を掴まったままスマートフォンを見ることなく、ずっと僕のことを見つめていた。僕は最初自分の勘違いかと思ったのだが、どうもそうではないらしい。僕は彼女の視線に耐えかねて本を読むのをやめ顔を上げた。
「あの……何か?」
僕がそう尋ねると彼女は慌てて目を逸らした。そして小さな声で「すみません」と言った。
「何か失礼がありましたか?」僕がそう尋ねると彼女は首を横に振った。
「いえ……そうじゃなくて、あなたのことを見てました」
彼女はそう言うと俯いて黙ってしまった。
僕は彼女の言葉の意味がわからずに困惑した。
「それはどういう……?」
僕がそう尋ねると彼女は小さな声で答えた。
「私、あなたのファンなんです」
僕は彼女の言葉の意味がわからずに困惑した。僕のファン? どういうことだ? というかそもそも彼女は何者なんだ? そんなことを考えていると電車が目的の駅に到着したので、僕は彼女に「とりあえず降りましょう」と言って一緒に電車を降りた。
ホームのベンチに並んで座ると、彼女はまず「先ほどはすみませんでした」と謝った。
「いえ、別に気にしてないですよ。それよりあなたが僕のことをファンというのはどういう意味ですか?」
僕がそう尋ねると彼女は少し恥ずかしそうにしながら答えてくれた。
「私、出版社に勤めながら小説を書いてるんです。それであなたを題材にした小説を書きたいと思っていて……」
彼女の口から意外な言葉が出てきたので僕は驚いた。
「それは……ありがとうございます?」
僕が礼を言うと彼女は嬉しそうな顔で頷いた。その日はお互いに授業や仕事があるため、僕らは慌ただしく連絡先を交換して別れた。後になって聞いたところでは、それは全て彼女の想定した展開通りであったらしいが、僕もまた彼女に惹かれて出会いを妄想していたわけだからお互い様だろう。僕と彼女の違いは、その妄想を現実に実行したかどうかだけだし、これはその後の二人の付き合いにおいても概ねその通りだった。
◆◆◆
それから僕らは色々な話をした。彼女が書く小説の話や、好きな作家やジャンルのこと、そしてどんな人間が好きかということも。僕もまた彼女に質問んされたことには全て答えた。彼女は僕に対して「もっと貴方のことを教えてください」とよく言った。僕は自分の話をすることが苦手だった。それは僕の過去があまり良いものではなかったからだ。だから僕はいつも自発的には自分のことを話さなかった。でも彼女はそんな僕の過去を知ってもなお「もっとあなたのことが知りたいです」と言って僕に話をさせた。
「私はあなたの過去を知りませんけど、でもあなたが素敵な人だということはわかりますよ?」
彼女はよくそう言った。
僕と彼女は休日に会い、デートを重ね、お互いの家を行き来し、そして当然のように男女の仲になった。彼女と愛し合い抱き合った後、ふと思いついて聞いたことがある。
「君が書こうとしている僕の小説には君も出てくるの?」
すると彼女は微笑んで言った。
「もちろん、そうなりますね」そう言って彼女は悪戯っぽい表情で僕の下半身を優しく撫でる。
「もしかすると、貴方が私に見せてくれた可愛い表情も、私の髪で扱いて欲しいってお願いした言葉も、すべて小説の文章になってるのかもしれませんよ」
彼女はそう言って僕の胸に頬ずりした。僕は苦笑しながら彼女の髪を撫でる。
「それは恥ずかしいな」と僕は言った。
僕がそう言うと彼女は微笑んで僕の胸に顔を押し付けた。彼女の長い黒髪が僕の体を撫で、僕はその感触がくすぐったくてクスクスと笑った。
「私が書いたら、きっと素敵なお話になりますよ」そう言って彼女は僕を見つめた。
「だって貴方のことが大好きなんですもの」と彼女は言った。
◆◆◆
交際を始めた頃、僕と彼女はよく喧嘩をしたが、それでも別れるという選択肢はお互いになかった。そして喧嘩をした日の夜は決まって激しく体を求め合った。
「私、あなたのことをもっと幸せにできると思うんです」
ある晩、彼女は僕にそう言った。
「私はあなたのことが好きだし、あなたも私のことを好きですよね」
「うん、好きだよ」と僕は答える。
「でも、時々不安になるんです。私は貴方を愛しているつもりで、本当は何も愛せていないのかもしれないって」
僕は彼女の話を黙って聞いていた。彼女は僕の目を見つめながら続ける。
「私の作る物語は私だけが満足するお話です。私にとっては全ての登場人物は私自身と似たような存在なんです」と彼女は言った。
「でも貴方は違うんです」と彼女は言った。
「私は貴方をもっと幸せにできるし、もっと幸せになれると思うんです」彼女はそう言うと僕の唇を奪い、ゆっくりと舌で舐め上げた。
「私はあなたの幸せになりたいんです」そう言って彼女は僕の胸に手を当て、そのままゆっくりと首筋へと舌を這わせた。
「貴方の全部が私のものになればいいと思うんです」彼女はそう言うと僕を強く抱きしめた。
僕は彼女の髪を撫でながら答える。
「僕は君のものだよ」
「でも、まだ足りないんです」と彼女は言った。
「もっと貴方を愛せれば、もっと貴方を幸せにできれば、きっと私も満足できると思うんです」と彼女は言う。
そして僕の目をじっと見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「だからもっと私のことを愛してください」彼女はそう言って僕の首に腕を回した。
そして僕たちは激しくお互いを求め合った。彼女の白い肌が暗闇に浮かび上がり、彼女はその美しい黒髪を波打たせながら何度も果てた。僕もまた彼女の中で果て、そのたびに彼女は満足げな表情で僕を見つめた。「もっと愛して」彼女はそう言うと、もう一度僕に体を預けてきた。
◆◆◆
僕が彼女と付き合い始めてから半年が経った頃、彼女は僕にひとつのテキストファイルを見せてくれた。それは彼女が僕の登場する小説を書くにあたって書き上げた文章の断片だった。その小説は僕の想像よりもずっと素敵で素晴らしいものだった。僕は思わず彼女を抱きしめた。
「ありがとう」
僕がそう言うと彼女は照れ臭そうに笑って言った。「どういたしまして」と。僕は彼女を抱きしめたまま耳元で囁いた。
それから時々、彼女は僕に書いた文章を読ませてくれるようになった。彼女の文章はまるで僕が彼女の頭の中に実在しているかのようだった。彼女は僕のことを見透かしているように、すらすらと物語を紡いでいく。僕はその小説を読むたびに、彼女の中に広がる物語の中に引き込まれていくような感覚を覚えた。僕は次第に彼女の文章に夢中になっていった。
「この小説はいつか完成するのかな」と僕は彼女に尋ねたことがある。すると彼女は少し照れ臭そうに微笑んで言った。
「どうでしょうね、私にも正直わかりません」
「僕に手伝えることはあるかな?」
彼女は少し考えると誘惑するような視線で「じゃあ、今晩どうですか? 私もっと貴方のこと知りたいんです」
「なんだか濡れ場の多い小説になりそうだ」
「案外、子どもが誕生して主人公変更からの第二部突入なんてありそうですね」と彼女は笑いながら答えた。
「君が書くならきっと面白い物語になると思うよ」と僕は言った。
◆◆◆
暗闇の中で彼女の裸体が舞っている。僕の下半身と彼女の下半身は繋がり、一つの生き物のようにベッドの上でもつれ合っている。彼女は僕の上で艶めかしく動きながら、その長い髪を波打たせる。
彼女の唇は柔らかく湿っている。時々漏れる吐息は甘く、そして少し塩辛い。僕は彼女を抱きしめて何度もキスをする。彼女の肌は白く滑らかで柔らかい。僕はその肌に舌を這わせて彼女の味を確かめるように舐める。彼女はくすぐったそうに笑いながら「もっと愛して」と囁く。
「もっとたくさん愛して、そして私を満たして」と彼女は言う。
彼女の中は温かく湿っている。僕はその心地よさに身を委ねながら彼女を抱く。彼女が動くたびに揺れる黒髪が美しい。僕が突き上げる度に身体をよじりしがみつく。まるで何かにつかまらずにはいられないといった様子で。熱く濡れた柔肉が僕を包み込みズブズブと一気に根元まで吸い込んでいく。もはや犯しているのか犯されているのか解らなくなる。やがて彼女は何度目かの絶頂を迎えると全身を震わせてしがみつき、唇を重ねて熱く甘い息を弾ませた。
僕もまた彼女の嬌声を聴きながら、灼熱のような精液をどくどくと彼女の中に放出した。そして力が抜けて倒れ込んでくる彼女を強く抱きしめ彼女の背中を優しく撫でる。
「私は貴方を幸せにできましたか?」と彼女は言う。
「ああ、もちろんだよ」と僕は答える。
「こんなに幸せでいいのかな」と僕が言うと彼女は微笑んで言った。
「いいんです、貴方は私の書く物語の主人公なんだから」そして彼女はゆっくりと起き上がり僕にキスをした。それから僕らはまた何度も体を求め合い何度も愛し合うのだった。
(終)