路面電車で出会った女性との、白昼夢のような日々に迷い込んでいる(1)
息をのむような、という表現がある。英語でも”breathtaking”という単語が似たような意味らしい。ということは思いもよらぬ事態に直面したとき、ふいに呼吸を忘れてしまうのは、広く普遍的な反応であるようだ。
大学を卒業してすぐの頃、僕は路面電車の車内で、息をのむような美しい女性に出会った。
午後の光が彼女のきめ細かな白い肌を照らしていた。年齢はおそらく20代から30代だろう。生活感が希薄でどんな人物なのか想像が及ばない。思い通りにならない仕事の不満も、繰り返される毎日の倦怠も、彼女の中には入り込む余地がなかった。
深窓の令嬢、と言われたら信じたかもしれない。だがそんな女性が無防備に一人きりで、路面電車に乗っているはずもない。もういっそこの空間に存在していること自体が不自然だとすら思える。アイドルのような人工的な偶像ではない、理想的な女性がそこにいた。
とはいえ冷静になって考えると、それはあくまで僕にとってそうである、というだけだったのかもしれない。
これほど隔絶した美女がいるのに、車内の様子は平穏そのものだったからだ。まるで人類を超越した存在が余計な注目を集めないために、人々の認識を阻害する魔法でもかけたかのように、僕以外に誰も彼女を気に止めていなかった。
肩よりも長い髪は黒に近いブラウンで、その瞳は涼しげで深い湖を思わせる。身長はそこまで高くないのかもしれないが、姿勢がいいのですらりとした印象だ。鼻と口はともに小さく絶妙なバランスで構成されており、彼女のどの部分も意識的にデザインされたような完璧さだった。
褒められた行為でないのは承知の上で、僕はその女性をこっそりと観察し続けた。彼女は窓の外に顔を向けて、ぼんやりと景色を眺めている。その姿は何かを探しているようにも、何かを待っているようにも見えた。
この路面電車は市内を周回する路線だ。ということは彼女は市内に住んでいるのだろうか。それとも近隣の市町村に住んでいるのだろうか。どれだけ想像を働かせても彼女には届かない。僕の思考は彼女の引力に囚われ、彼女を中心に周囲を巡り続ける。その実像に近付きも遠ざかりもしない。
◆◆◆
僕は彼女自身ではなく、彼女を取り巻く人間関係を想像しようとした。
とても美しい女性だ。恋人がいてもおかしくない。彼女の隣にはどんな男性が立つのだろうか。二人はどんな表情で見つめ合い、どんな言葉を囁き合うのだろうか。
彼女の周りを遠巻きにうろうろするだけの僕には、二人を見ていることしかできない。二人は親密な距離感で互いに顔を寄せ合いそっと唇を重ねる。絡み合う舌がちらちらと見えて、僕は激しい嫉妬と興奮を覚える。
二人の行為は次第に卑猥さを増していく。彼女の手が男性のペニスをズボンの上から擦り、男性の手が彼女の豊満な胸を覆う。彼女は誘うような瞳で男性を見つめながら、一方で小声で何か言葉を漏らす。男性の手は彼女の服の内側へと侵入して下着の上から乳房を強く揉みしだく。
彼女の声が少しずつ高くなり、呼吸が乱れていく。男性もそれを見ながら興奮を高める。やがて男性は彼女のスカートをたくし上げ、その中にも手を入れる。彼女は小さく声を漏らしながら、それでもなお男性に何かを囁きかける。
彼女が男性の性器を取り出し直接愛撫を始める。ときに激しく、ときに焦らすように、彼女の指先は男性を絶頂へと導こうと誘惑する。男性は容易く限界を迎え、彼女に向かって精液を放出する。彼女はそれをすべて手で受け止めると、その白濁液を口に含み妖艶に微笑む。
男性のそれは一度の射精を経てもなお、雄々しく勃起し続けている。彼女は男性のそれを再び握り、上下に手を動かす。男性も彼女の秘部に手を伸ばし、下着の隙間からその形を確認する。彼女はさらに激しく手を動かし、やがて男性も二度目の射精に至る。
それでもなお二人の行為が終わることはない。今度は彼女が下着を脱ぎ、スカートをたくし上げて自らの性器を晒す。男性はそれを見ながら自分の性器をしごき始める。そして彼女の腰を掴むと、自らの腰を突き出して彼女の中に収める。二人は互いに腰を動かし合い、快楽を貪り続ける。結合部からは淫らな水音が響き、離れた僕の耳の奥にまで、なぜか二人の吐息が反響する。
僕はそんな様子をただ見ていることしか出来ない。僕は彼女の恋人でもなければ友人でもない。ましてや家族や親類ですらない。単なる通りすがりの男だ。僕の存在が彼女の世界に入り込む余地はない。ただ、彼女の存在や湿った吐息や衣擦れの音が、一方的に僕の奥深くに沁み込んでいくだけだ。
やがて、彼女は小さく嬌声を上げて、男性はぶるりと震えて精を放った。
彼女と男性は繋がったまま互いの身体を抱きしめ合う。きっとその瞳には快楽とともに相手に対する愛情が映っているのだろう。彼らは行為を終えると再び見つめ合い、微笑みを交わすはずだ。そして唇を合わせ、愛の言葉を囁き合うに違いないのだ。
彼女が男性の耳元で何かを告げても、その声だけは靄がかかったように僕には聞き取れない。行為の後始末を終えると、二人は何事もなかったかのように立ち去る。僕はその一部始終を見ながら、彼女が残した情事の残り香が、自分の場所まで届くのを待っている。
◆◆◆
やがて路面電車は駅に到着した。
立ち上がる彼女の所作に見惚れていた僕は、電車が到着したことに気づいていなかった。
彼女はそのまま僕の座る座席の前を横切る。移動によって巻き起こったかすかな風が彼女の髪をふわりと浮かせ、甘い香りが鼻腔をくすぐった瞬間、僕はようやく我に返った。
「あ、あの!」
思わず呼び止めると、彼女は少し驚いた様子で僕を見た。
「あの……すみません。ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが」
僕は勇気を出して声をかけた。そんなことをしたのは、後にも先にもあの一度きりだ。勇気を出せた自分を褒めてあげたい気もするが、どちらかと言えば僕を突き動かしたのは、彼女の美しさであり彼女自身だったのだと思う。このまま別れて二度と会えないくらいなら、ほんの少しでも彼女を見ていられる時間を伸ばしたい、そんな衝動に駆られての行動だった。
僕は、もし時間があればお茶をしませんか、とかそんな誘いをした気がする。緊張して必死だったので正直その辺りはよく覚えていない。たしか彼女は「ありがとうございます」と言った。それから僕は名前を名乗って、彼女もそれに応じたはずだ。僕はその時から彼女の名前を沙耶と認識しているから。すべては前後の脈絡からの推測にすぎない、曖昧な記憶だ。
ともかく僕たちはカフェで会話をすることになった。そして、頭のおかしくなっていた僕がどこかのタイミングで彼女にかけた言葉を今でも覚えている。それは僕の人生において最も愚かしく、そして最も美しい思い出のひとつだ。
僕は彼女にこう尋ねたのだ。
「あなたは神を信じますか?」と。
◆◆◆
幸運にも僕が彼女と知り合い、その後に関係を深めていく過程において、初対面で発した僕の「神を信じますか」という言葉は、幾度となく彼女によって、からかいのネタにされることになる。
僕はそれが恥ずかしくて、最初はよく自己嫌悪に陥ったりもしたが、今ではそれも含めて彼女との大切な思い出だと思っている。僕たちの距離を縮めるきっかけになったのが、その一言だったのは間違いないのだから。
ベッドの中で彼女は、くすぐっているようにも愛撫しているようにも思える微妙な手つきで僕の身体に触れながら、くすくすと笑う。
「あなたは神を信じていますか?」
彼女は耳元で囁いて、微笑みながらゆっくりと僕の髪を撫でる。僕は黙って質問を聴かなかったことにしてやり過ごそうとする。
「私は神様を信じていません」
彼女はそう呟くと、僕の胸の上に頭を乗せて心音に耳を澄ませる。手を当てて、そのまま下腹部へと滑らせる。彼女が動くたびに長い髪が揺れて、その先端が肌をくすぐるのが妙にこそばゆい。彼女を見ると、その表情には悪戯っぽい微笑みが浮かんでいた。
「だけど……あなたが神様だったらいいのになって思うことがあるんです」
そう言って彼女はゆっくりと僕に口づけをした。それはいつも唐突に始まるキスだった。
「だって神様は、私があなたに恋をすることを許してくれませんでしたから」
恋人同士がするキスを僕たちは何度も繰り返す。やがて彼女が僕を抱きしめたので、僕も彼女を抱きしめてそのまま体勢を逆転させる。彼女の髪がシーツの上に広がり、僕の影が彼女の顔に落ちる。彼女を抱きながら、その肌の柔らかさや温かさを感じて興奮が高まるにつれて、頭のどこかで別の自分が冷静に呟くのを感じる。
こんな綺麗な人が、どうして僕なんかに抱かれるのだろう。
いくら考えてもその理由は分からない。僕はただの凡人で、だから彼女の心を理解することは難しかったし、彼女が何を思っているのかも理解できなかった。いつか飽きられて捨てられるのではないかと思うたびに不安になるが、それでも彼女が求める限りは、この関係を手放すつもりはない。
これは僕と彼女との出会いの話であると同時に、今も僕が見続けている夢の話でもある。
(続く)